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17年目の1.17に寄せてー新しい市民社会の文化を。


17年目の1.17に。

あれから17年もたってしまいました。ボランティア元年という言葉を生み出した1995年。私はその渦中の中で新たな人生を得た一人です。はじめの150日間は、テントで暮らしながらの被災地支援活動。3日のつもりが、1週間会社を休んでということになり、そして1ヶ月休職。そして更に。結局やっと入れた会社を2月の終わりに退職することに。そして4月から正式に神戸元気村の副代表を職業に歩み始めたのでした。確か8月までは無給で自分の銀行口座から持ち出し。でも炊き出しを食べたりみんなで自炊していたし、公園のテント生活で家賃もなく、24時間体制で被災者支援の活動に明け暮れていました。
 仮設住宅の独居のお年寄りをターゲットに、孤独死防止用のプロジェクト「ベルボックス」と被災地支援のコンサート(当時6千人の高校生を招待してワールド記念館でおこないました。ハービーハンコックら超一流アーティスト、JAZZ )のコーディネートなどに奔走していました。バウさん(山田和尚)の繰り出すアイデアを実行に移すのが僕の役目。当時感じていたのは「今が太い」日々をようやく手にいれた。という実感だったと思います。今という時しかない。そこには過去という時間も未来と言う時間もない。とにかく今を集中して生きるということ。
 やれたこと、やれなかったこと。様々有りますが、29歳までの自分が全く踏み出せなかった一歩を僕は踏み出せていた。そんな自分がありました。2月22日、被災地で多くの同士に祝福されながらの30歳を迎えていました。
 当時日々200人ぐらいのボランティアの中で次を生み出すことをバウさんとやっていたように思えます。次のニーズを読み解くこと。そのためにバウさんは昼夜を問わずメディアを問わず、場所を問わずリサーチをし、「次はこれなんやわ」と一瞬、奇想天外にも思えるが、よく考えると納得できる、ようなアイデアを僕に話し、僕はなんとかそれに応えようとしました。応え、動いて自分なりにいくつかの壁を越えることもできました。その時の一つ一つが自分の自信になっていきました。
 ボランティアの場に一歩踏み出すと、自分の世界が変わります。一つの笑顔をつくるために、あれをやったらどうか。いやまてよ、あれも必要かもしれないな。お、それならあの人に声をかけてみようか。などなど、実にクリエイティブな喜びがあります。そして、今まであったこともない人に会えたりします。僕は神戸以来特に、ずっとそんな出会いの連続に恵まれていたように思えます。

 僕が当時会社を辞めてまで神戸元気村を職業にやっていこうと思ったのは、実は長良川河口堰の反対運動の際に出会った NGOという世にも珍しい職業をやっていた人々に会ったからでもありました。デビッドブラウアーやオーウェンラマーズ、フィリップウイリアムス、などなど。学者の肩書きもある人もいましたが、ダムファイターとかアクティビスと(市民活動家)としてNGOを運営しているという人々でした。「ダム反対運動をやってそれを職業としてできるなんて、すごいな」僕も川を守る活動が職業にできたらとも考えていましたが、もしかするとこの震災復興だったらNGOというものが成り立つのかもしれない。と考えてもいました。

 結局3年、神戸にいて、後半はベルボックスと同時に仮設住宅から恒久住宅への引っ越し支援、お米で被災地と全国を結び直す3ライス神戸プロジェクトを展開していました。
 この3年は僕の今の政治の原点でもあります。市民が思いをもって動けば、物事や仕組みが変わるのだということ。私達の活動はボランティア元年という言葉を生み出し日本にNPO法を生み出しました。
その後、日本海重油災害では、はじめて社協とNPOと青年会議所が協働してボランティアセンターをつくるという文化を生み出しましたし、インターネットでのボランティアコーディネートの先駆けをおこなわせていただきました。

04年の新潟水害と中越大震災。中山間地への支援策などを展開しました。
そして昨年の東日本大震災。

神戸からの経験を活かしてやれたかなと思えるのは、3月19日にはいった石巻で、20日に当時現地入りしていたNPO、NGOと社会福祉協議会、行政との情報共有の場をつくることができたことです。
その2回目(3.21)の模様は、http://www.ustream.tv/recorded/13546578 で録画中継されています。
このNPOの連絡調整会議は、石巻災害復興支援協議会となり、奇跡のボランティアという集団として行政の最新情報を共有する中で複数団体の連携で町の泥だし作業や漁業支援など様々な新しい活動を展開してくれました。

今、東北の被災地では仮設住宅への支援が課題となっています。神戸での活動を踏襲するかたちで、当時の仲間達と絆ベースと協働して3ライス元気村プロジェクトをはじめました。私も年末の12月23日に現地にお米を持って行き、メッセージカードを添えて仮設住宅の65歳以上の一人暮らしの方々にお配りしました。「いつもは家にひきこもったままだ」「米を買うにも遠くてどうすればいいか」との声を伺いました。段々と報道も薄れ、どんどん寂しくなるのが被災地だということであり、山形のボランティアはむしろこれからだ。と考えているところです。

 「ボランティア元年」の17年後、2万名もの犠牲者に向けて僕らは何ができるか、問われていると考えます。
この1月9日は郡山を再度訪れました。手持ちのガイガーカウンターは0.6、0.8μシーベルトを記録。線量が高いままです。子ども達の室内遊び場を視察してきました。3連休は整理券待ちの大盛況。確かに園遊び場は豪華で実によくできていて、みんな楽しそうだったのだけれど、外に一歩でればかなり高い放射線を浴びることになる。正直子ども達は大丈夫なのか。本当に心配になりました。
 強制集団疎開でも考えていかねばならないのではないか。とも考えました。

1.14,15は脱原発世界会議が横浜で行われました。1日のみでしたが参加しました。
2日間で1万人の人が集まる大盛況ぶり。そして主体的に問題を解決しようとする一人一人の熱い行動に出会えました。
 
17年目の 1.17、今日はテレビで希望の灯をみてから上京、昼すぎから脱ダムのアクションと緊急フォーラムを国会近辺でおこないます。

僕にとって阪神淡路以来の被災地支援のボランティアも脱ダムや脱原発の行動も全く同じ思いでの行動です。県議会議員としての提言も追求も質問も全く同じ思いで行動しています。

一つでも人々の笑顔をつくるため。子ども達に恥ずかしくない未来を手渡すため。

311以