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湯殿山開山祭に思う。日本の再生 脱原発 脱ダムが当たり前の持続可能な社会へ。


6月1日、湯殿山開山祭。毎年恒例で参加させていただいている。

この時期、ブナの新緑の息吹が最高で、エネルギーに満ちあふれ、残雪とのコントラストも実に美しい。昨日の開山式、一つの思いを持って行った。ポスト311の新しい社会をなんとしてもつくらねばならないという思いだ。

 原発再稼働のニュースが流れている。関西連合の知事が盾となって大飯の再稼働はないだろうと思いきや、このありさま。原子力ムラはそれほど強いということか。日本の病気はそれほど根が深いということか。

 ポスト311。新しい社会は、持続不可能な社会の連鎖から脱し、持続可能な(サスティナブル)な社会にしていくことだ。今、ここで方向転換を果たせねば、一生禍根を残すだろう。

今一度、持続可能な社会とはどういう社会なのかをお伝えしたい。

私たちは地球に住んでおり、この地球の資源は有限だ。そして、46億年の歴史の中で、以前は動物や人間など住めるはずのない放射能や、科学物質で充満していた地球上は、主に緑の細胞によって秩序づけられ、ようやく人類が住める環境をつくりだしてきた。そして今僕らが生きている。しかし、このたった100年も満たない歴史の中で、僕ら人類は地殻にある資源をそれが再生される速度よりものはるかに速い速度で掘り起こし、それを利用する過程で化学物質を大気中に拡散してしまっている。こうした化学物質は大気中にばらまかれると拡散することはあってもなくならない。さらに、物質循環の基盤となっている生物多様性の緻密なバランスをどんどん消滅させている。さらに日本の社会は特に、真の民主主義とは程遠い、「原子力ムラ」を象徴する構造によって、まともなことができない病気の構造が根深い。これによって被爆労働者を象徴する人権侵害も引き起こしている。

こうした社会をいかに持続可能な社会に転換するか。

今こそ、明確な羅針盤が必要なのだと考える。僕も何か迷うとこの定義に照らしてみる。

1)地殻から掘り出した物質の濃度が増え続けない(化石燃料からの脱却)
2)人間がつくりだす物質の濃度が増え続けない(化学物質の抑制)
3)自然が物理的に劣化しない(生物多様性の尊重)
4)人々が満たそうとする基本的なニーズを妨げることをしてはならない。

これはスウェーデンの環境NGO ナチュラルステップで20年前の地球サミット以前から提唱されているものだ。

ちなみに、発電を原子力で行う事は、1から4、全てに違反する。ウランは化石燃料と同様。そして放射性物質を吐き出し、事故ともなれば最悪の環境汚染、自然を破壊する。さらに被爆労働者の問題も抱えている。

ダムはどうか。3)と4)に確実に抵触する。

生物多様性を破壊することがいかに経済にダメージを与えるかは、すでにナチュラルキャピタリズム論や「スターンレビューの生物多様性版」TEEBで紹介され各国で、開発を抑制し、生物多様性を保全、再生させるためのNo net loss (ノーネットロス)政策やミチゲーション政策などがとられてきている。米国、ヨーロッパのダムが撤去されているのは、流域の経済を取り戻すためといった事が大きな要因になっていると聞く。

原発、ダムはこれまで進められてきた象徴的な日本の政策の2つだが、この2つは確実に、「持続可能な開発、持続可能な発展」を目指して政策を組み直している世界の潮流に逆行しているといっていい。

山形県内でも、この数十年で相当の自然が破壊され、消滅してきた。特に水辺環境は大型ダムや1500基以上もの砂防、治山ダム群によって本来の生物多様性をどんどん消滅させてきた。先般委員会の議論からすれば、内水面漁業の漁獲高は20年前と比べるとほぼ半減している。

これ以上、こうした消失をしてしまってもいいのかということだ。

今、見直されるべきは、この地域だからこそできる経済。この地域の資源や文化を見つめ直し、その資源を研くことで経済に結びつけていく経済。
 川でいえば、その川特有の水産資源だろうと思う。今や「美味しい鮎」はとても希少価値のある経済の源ではないか。と思うのだ。これはとある有名シェフがいっていたことだが、鮎はまさにその流域の「テロワール」を示す。フランスのワインが同じぶどうを使ってもその地域地域で全然味が違うように。
要は小国川の鮎を失うと、絶対無二のその地域の文化を失うということなのだ。まさにかけがえのない文化を。

僕ら鶴岡市民は、鶴岡のおいしい地下水100%の水道水の文化を政策によって失わされて10年になる。その同じ轍を踏むようなことになってはいけない。鶴岡の水源については、今後、持続可能な地域水道として再検討を促させばならないが、今さらにおこなおうとしているダム計画は、それこそなんとしても止めなければならない。

 小国川の問題といえば、流域の生命と財産を守るためのダムと県、は主張しているが、しかしながら、現地を訪れ、流域の状況を見、状況を調査してみれば、ダムで治水を考えるより先にやらねばならない治水対策が見えてくる。河道に土砂が堆積している。旅館は河道にせり出している。県がつくった堰によって河道に土砂が堆積し、周辺を危険にしている。
 それに、水害の歴史をたどってみても死者を出す水害は起きていない。最近の洪水は周辺の内水被害が主で、床下浸水が主なものだ。

 僕らは以前より、この問題を指摘し、そして昨年の私の質問等でも、県がこれまでおこなってきた委員会の外からも研究者を招聘し、再検証すること求め続けてきた。

これまでの議論の内容は、まさに「原子力ムラ」同様の「ダムムラ」の中だけの議論にすぎなかったのだ。それは確実にいえる。あの「安全神話」同様、ダムが有利、ダムのほうが金がかからず自然にやさしい。などと主張されてきたのだ。

それに311の教訓は、「危険想定」を前提にしたハード整備が、それを上回る津波に全く対処できず、安全だと思っていた住民にとってはより脅威になったことだ。
まさに想定外の洪水に対処できないダムは全く役に立たないし、生命と財産を逆に奪う牙をむくときもある。
実際、新潟の五十嵐川では上流にダム2つもあるにもかかわらず2004年に水害をおこし人命を奪った。刈谷田川でも同様。さらに昨年和歌山で3つのダムをもつ河川で治水がかなわず、犠牲者を出している。

今、治水のあり方にも「どんな水害 でも人命だけは守る」ダムにたよらない総合治水が、滋賀県をはじめとして進められている。そのトレンドをつかむならば、今、山形で、貴重な自然を破壊してまで効果の薄いダムをつくる事はどう考えても愚行としかいいようがないと思うのだ。

もう原子力ムラやそれと同様の「ムラ」によるマインドセットを溶かして、まともな議論をし、より持続可能な社会を手につかもう。

ポスト311の社会は、脱原発と脱ダムが当たり前の持続可能な社会だ。それを強く望み、みんなで実現することだ。

6月1日、湯殿山開山式にそんな思いで臨んだ。

ブナの新緑の息吹。湯の沸きいでる赤い岩を目前に晴天の空には虹の環がかかった。

月山、出羽三山の恵みを享受するこの地から、新しい社会を築き上げよう。

全てを受け入れ、再生させる力のもつこの地から。

持続可能な社会へ。

動き出そう。

2012.6.2