1.17に思う。
1.17、「神戸」から18年目。6434名の犠牲、そしてあの時からの教訓を活かせているか。改めて問われる日です。神戸は私の人生を変えました。3日間のつもりで救援に行った神戸。1月20日西宮。1月23日神戸。当時、3人で新神戸から4時間かけて御影公会堂まで歩いた、その惨状は目に焼き付いています。御影公会堂で、出会ったバウさん。そしてやりはじめた「神戸元気鍋」づくり。必死に鍋を作ってお椀を差し出すと、涙を流して喜んでくれたお年寄り達。で、3日後、「私は残ります」「はあ?」ということになり、結局当時働いていたらでぃっしゅぼーやを辞め、「神戸元気村」は私の仕事になったのでした。副代表としての3年間。バウさんと共に、被災地でゼロから1をつくる。これを真っ正面に据えて、ほとんど寝ることもパンツを替えることも忘れて動き続けた3週間。「太い今」という瞬間。多くの方々と交わした握手。そんなものが私自身を変えていったのだと改めて思います。
とにかく今を完全燃焼させる。そこには過去も未来もありませんでした。とにかく「今」の連続だったのです。「草島進一」はそのとき、「会社員」から「市民活動家」に脱皮したのでした。
神戸元気村は、阪神淡路大震災後のボランティアの拠点としては最大規模。1番多い時には150名ものテント村を拠点に、被災者のニーズを踏まえ、時にニーズを先取りし、(時にはエラーもしたけどクリーンヒット連発も)2週間で得約30種類ぐるいのプロジェクトを同時におこなっていました。
神戸の人と一緒に生きよう。と、テント生活150日、その後、公園でのコンテナハウス暮らし1年半。ようやくアパート暮らしと思いきや、重油災害発生につき福井での国民宿舎生活4ヶ月、、、などという日々を送りながら、確実に新たしい文化をバウさん、まっちゃん、吉村夫妻、とーる氏、らと作り上げて行っていた。そのCC(カルチャークリエイティブ)といえばかっこいいか。そんな日々をちょっと思い出しました。
バウさんは「これをやる。と思い切ればやれるもの」という信念の持ち主でした。人生は自ら開く。それを実践していらっしゃり、本当に多くの事を学ばせて頂きました。
思えば、「草島進一」が社会に目を見開かされたのはこの18年前の1.17でありました。一つの笑顔をつくるために、お金の枠から完全に外れて、動き回っていました。
全く自信なき、不良会社員だった私は、世にも珍しいボランティア団体の副代表という職業を生きることになったのでした。そこから、不思議な、そして運命的な出会いと絆がたくさん生まれました。今、その多くの方々に支えられ、今の僕があります。政治への志のベースの大きな一つはこの「神戸」にあります。