以下、朝日新聞の天声人語より。
▼山田青年は1945年8月14日の日記に、「個」を潰しに潰してきた日本の社会に対する痛恨の念を記している。出る杭を打ち、変わり者を追い払う。日本人は「全く独立独特の筋金の入らないドングリの大群」のようになったと嘆いた▼全体主義が支配した戦時中のこととして読み流すことができない。あなた方もドングリになりなさい。そんなささやきが、昨今のこの社会のそこかしこでも執拗(しつよう)に繰り返されているのではないかと危ぶむ▼「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。この俳句を刊行物に載せることを、さいたま市の公民館が拒否した。世論を二分する問題だからだという。当初は、市の意見と誤解されないよう配慮したとの説明もあった。作者の名前も出るのに、である▼憲法や原発の問題で講演をやめようとしたり、展示を拒んだり。時の政権を刺激しそうなことは極力しない。公職者らの上目遣いが相次ぐ。意見がわかれ、議論をかわす。民主主義の面倒臭さをすっ飛ばすなら時代は逆流する▼あの夏の8月16日、風太郎は敗因を分析し、記した。日本人は「なぜか?」という問いを持たなかった、と。いま、ドングリになれという声には、なぜかと問い返そう。「個」であるために。
出る杭を打ち、変わり者を追い払う。時の政権を刺激しそうなことは極力しない。
69年前にあった事を僕らはまだまだよく知らない。「硫黄島の手紙」も今日、テレビでやっていたけれど、自分事として現場の空気を吸っていない。けれど、完全に狂った社会がつくりだされていることは容易に想像できる。そして、今、そのきな臭い空気は、尖閣や拉致問題の後ろにあり、実はダムのそばにも原発のそばにも存在するのだということ。真正面からの議論や論戦を恐れて、思いや意見を無視し排除する。体裁を装いながら理不尽な圧力を権力者がかける。これは日本という国の伝統のようなものなのか。
お上の言っていることは正しい。お上の言っていることに間違いがないから、それに乗っておればいい。
政治がもしそれをやったなら、政治が政治ではなくなると僕は強く思う。僕らは努めて、流されようとする空気を見据え、水を差していかなければ。水はうわついた心を冷まし、一挙に現実に引き戻してくれる。その水を打たなければと思う。議会で議論を闘う自由と権利。表現する自由、批判する自由、デモを歩く自由、看板を掲げる自由。クリエイティブの熱。それを奪われることはない。空気を読むことばかりが強調され、情熱の創造の一歩が非難をうける。そんな社会は生きづらい。楽しくない。
当たり前の自由や思想をもつことや表現をすることに圧力がかけられ、拷問を受け、命までもが奪われていた狂った国家の状況こそ、戦争がつくりだす狂った社会だ。銃弾を受け、爆弾で吹き飛ばされる以前に、そして引き金をひき、爆弾で人を吹き飛ばすずっと以前に心、精神が死んでいる。人間破壊の社会であり、僕らが目指すべき「持続可能な社会」とは全く対局だ。
8月15日、どれだけ僕らは当時を想像し、その反省に立てるのか。そして今、それと同様の事がないようにチェックしバランスがとれるのか。改めて点検する。
今、3年半年前の311以前の持続不可能な社会に、さらには、70年より前の戦争をおこしてしまった社会にひきもどされそうな波間で必死に呼吸をしながらも、ひたすらに、バックキャストで持続可能といえる社会への道を歩みたい。
まずは、カネよりもいのちを優先する政治。戦争をおこさない政治、格差を今以上つくらない政治。そして人口減少でも石油が高騰しても、地球温暖化が進んでも持続可能な社会を目指す政治。
大事な事をひとつ。歴然とした憲法違反を犯し、平和、国民主権、基本的人権の尊重を柱とした近代立憲主義を反故にするような総理大臣になど絶対に服従しない。僕らは確固とした抵抗をし、真っ当な政治への変革を期し、行動をしていく。
8月15日終戦記念日。心に誓う。