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バウさんの逝去に


阪神淡路大震災からこの1.17で20年。

私が神戸で3年ともに活動した神戸元気村代表 バウさん 山田和尚が1月5日、亡くなった。

とても大きな人だったと思う。あのとき、バウさんがいなかったら、「ボランティア元年」までの動きにはならなかったと思う。

 

 初めてで出会ったとき「まず行動だ。ここはアフガンやチェチェンじゃない。陸続きの神戸だ。会社に有給をとって集まってほしい」とメディアに呼びかけていたことを覚えている。何を迷っているんだ。とにかく神戸行きの切符を買って電車に乗ればいいんだ。と語りかけていた。「行動すること」からすべてが始まるんだということ。僕自身、何ができるか不安のまま御影公会堂の玄関まで4時間かけて歩いて行き、バウさんと出会い、バウさんが用意したキャンプキッチンセットで、集まったみんなと見よう見まねで炊き出しをつくって千人以上並んだ方々に手渡した。器を手に涙流して喜んでくださったおじいさんおばあさんを前に、もらい泣きしながら自分の中でなにかがはじけた。あとで知ったがそれが阪神間で最初に「あったかい食を提供した炊き出し」だった。このことが報道で広められ炊き出しの輪が方々で広がっていったのだった。僕は3日で戻るはずの会社をついに辞め、3年間神戸で山田とともに救援活動に打ち込んだ。

 バウさんて何でバウというの?と聞いてみたらカヌーをやる人らしいということだった。僕も当時長良川を守る運動のみんなと毎週のように那珂川、気田川などにカヌー、カヤックにでかけていた。だから冗談も込めて「んじゃ僕はスターン(船尾)ということにしようかな」といってみた。
そこから名前で呼ばれなくなった。

 川下りのカヌーでバウマンは、先を読み、船の方向を決める。スターンはそれを受けて舵をきる。急激な動きは2人で舵をきる。バウさんは常に3歩ぐらい先を読んで次の方策を僕に打ち明けた。夜中にリサーチして日中に「次はこれや」と伝えてくれる。

 元気村での活動の中には、集まった方々の多様な能力や発想から生まれたプロジェクトもあるが、メインの軸のプロジェクトはバウさんが発案したものだった。次の方策を次々と見つけ、キーパーソンをつなぎ、コーディネートする。今でも思うが抜群のセンスで被災地の次々と変わるニーズを読む人だった。当時29歳の僕は突然の「次はこれや!」に翻弄されながらも、いわば必死でついて行った。そしてそれまで全く会ったことのない多くの方々と出会い、次々と企画が持ち上がり一つ一つを実行に移していった。

結局、テントで150日、公園暮らし1年半。ようやく風呂に行けたのは1ヶ月後だった。

でも、それまでには体験したことのない、無尽蔵の力に満ち、実に充実した太い「今」の連続を生きていたように思う。僕にとって神戸はまさに第二の人生のはじまりだった。バウさんに出会っていなかったらそれは開けなかった。


 神戸での息抜きは長良川や四万十川でのカヌーだった。オープンデッキのカヌーの底知れぬ魅力を僕はバウさんに教わった。カヌーの腕もさすがだった。

 

改めて人生最大の恩師に感謝したい。

ありがとう、バウさん。001 AS20150112002480_comm

昨日、10日にバウさんのまわりで再会したみんなと相談しながらリリースをようやく打てた。各紙報道されるバウさんの姿を見つつ、その偉大さを改めてかみしめる。この朝日の写真もとてもいいし各紙の緑色のパタゴニアフリースのもとてもいい顔だ。6000人もの犠牲を出した神戸で「ボランティア元年」の希望をつくりだしたボランティアコーディネーターの先駆け、大先達に合掌。

http://digital.asahi.com/articles/ASH1D72XLH1DPIHB02K.html

 

 

 

 

 

 

 

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