持続可能な鶴岡ブログ

持続可能な鶴岡ブログ
トップページ > 持続可能な鶴岡ブログ > 木村草太・首都大学東京 准教授 の見解と山口二郎 法政大学教授の見解に学ぶ

木村草太・首都大学東京 准教授 の見解と山口二郎 法政大学教授の見解に学ぶ


 

安保法案問題 今週の15日水曜日にも委員会強行採決されるかもしれないといわれる安保法案=戦争法案

昨日 中央公聴会があり以下、木村草太氏と我々、地方自治や昨年立憲自治体議員ネットワークなどでお世話になっている、我々にとってはおなじみ山口二郎 法政大学教授が語った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

木村草太・首都大学東京准教授「憲法無視の政策論は国民無視の政策論」

 本日は貴重な機会をいただきありがとうございます。今回の安保法制、特に集団的自衛権の行使容認部分と憲法との関係について意見を述べさせていただきます。まず、結論から申しますと、日本国憲法のもとでは日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使は違憲だ。ですから、日本への武力攻撃の着手に至る前の武力行使は、たとえ国際法上、集団的自衛権の行使として正当化されるとしても日本国憲法に違反する。

 政府が提案した存立危機事態条項が、仮に日本への武力攻撃に至る前の武力行使を根拠付けるものとすれば、違憲です。さらに、今までのところ政府がわが国の存立という言葉の明確な定義を示さないため、存立危機事態条項の内容はあまりにも漠然、不明確なものになっています。従って存立危機事態条項は憲法9条違反である以前に、そもそも漠然、不明確ゆえに違憲の評価を受けるものと思われます。

 また、維新の党より提案された武力攻撃危機事態条項も、仮に日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使を根拠付けるものだとすれば、憲法に違反します。逆に武力攻撃危機事態とは、外国軍隊への攻撃が、同時に日本への武力攻撃の着手になる事態を意味すると解釈するのであれば、武力攻撃事態条項は合憲だと考えられる。

以下、詳述いたします。まず、日本国憲法が日本政府の武力行使をどう制限しているのか説明いたします。憲法9条は武力行使のための軍事組織、戦力の保有を禁じています。外国への武力行使は原則として違憲であると解釈されています。もっとも、例外を許容する明文の規定があれば、武力行使を合憲と解釈することは可能ですから、9条の例外を認める根拠が存在するのかどうかを検討する必要があります。

 従来の政府および有力な憲法学説は、憲法13条は自衛のための必要最小限度の武力行使の根拠となると考えてきた。憲法13条は生命、自由および幸福追求に対する国民の権利は国政の最大の尊重を必要とすると定めており、政府に国内の安全を確保する義務を課している。

 個別的自衛権の行使は、その義務を果たすためのもので憲法9条の例外として許容されるという解釈も可能でしょう。他方、外国を防衛する義務を政府に課す規定は日本国憲法には存在しませんから、9条の例外を認めるわけにはいかず、集団的自衛権を行使することは憲法上許されないと結論されます。

 また、自衛のための必要最小限度を超える武力行使は憲法9条とは別に、政府の越権行為としても違憲の評価を受けます。そもそも国民主権の憲法のもとでは、政府は憲法を通じて国民から負託された権限しか行使ができません。そして日本国憲法には、政府に行政権と外交権を与える規定はあるものの、軍事権を与えた規定が存在しません。憲法が政府に軍事権を与えていない以上、日本政府が軍事権を行使すれば越権行為であり、違憲です。では、政府と自衛隊はどのような活動ができるのでしょうか。まず、行政権とは自国の主権を用いた国内統治作用のうち立法、司法を控除したものと定義されます。自衛のための最小限度の武力行使は、自国の主権を維持、管理する行為なので、防衛行政として行政権に含まれるとの解釈も十分にあり得ます。武力行使に至らない範囲での国連PKOへの協力は外交協力の範囲として政府の権限に含まれると理解することも可能でしょう。これに対し他国防衛のための武力行使は日本の主権維持作用ではありませんから、防衛行政の一部とは説明できず、また相手国を実力で制圧する作用であり、外交協力ともいえません。従いまして、集団的自衛権の行使として正当化される他国防衛のための武力行使は軍事権の行使だと言わざるを得ず、越権行為としても憲法違反の評価を受けます。

 では、自衛のための必要最小限度の武力行使とはどのような範囲の武力行使をいうのでしょうか。法的にみた場合、日本の防衛のための武力行使には、自衛目的の先制攻撃と個別的自衛権の行使の2種類があります。前者の自衛目的の先制攻撃は、日本への攻撃の具体的な危険、すなわち着手がない段階で、将来、武力攻撃が生じる可能性を除去するために行われる武力行使を言います。

 他方、後者の個別的自衛権の行使は、日本への武力攻撃の具体的な危険を除去するために国際法上の個別的自衛権で認められた武力行使を言います。武力攻撃の具体的な危険を認定するには攻撃国の武力攻撃への着手が必要であり、着手がない段階での攻撃は必要最小限度の自衛の措置には含まれないはずです。

 先ほど見た憲法13条は国民の生命、自由、幸福追求の権利を保護していますが、それらの権利が侵害される具体的な危険がない段階、すなわち抽象的な危険しかない段階で、それを除去してもらう安心感を保障しているわけではありません。従って自衛目的の先制攻撃を憲法9条の例外として認めることはできません。自衛のための必要最小限度の武力行使と認められるのは、あくまでも個別的自衛権の行使に限られるでしょう。これに対し、集団的自衛権が行使できる状況では、すでに外国に武力攻撃があり、国際法上は他国防衛のための措置であり、先制攻撃ではないとの反論も想定されます。しかし、国際法上の適法、違法と、日本国憲法上の合憲、違憲の判断は独立に検討されるべきものです。外国への武力攻撃があったとしても、それが日本への武力攻撃と評価できないのであれば、仮に国際法上は集団的自衛権で正当化できるとしても、それは他国防衛として正当化できるにとどまり、憲法上の自衛の措置としては違憲の先制攻撃と評価されます。では、政府と自衛隊はどのような活動ができるのでしょうか。まず、行政権とは自国の主権を用いた国内統治作用のうち立法、司法を控除したものと定義されます。自衛のための最小限度の武力行使は、自国の主権を維持、管理する行為なので、防衛行政として行政権に含まれるとの解釈も十分にあり得ます。武力行使に至らない範囲での国連PKOへの協力は外交協力の範囲として政府の権限に含まれると理解することも可能でしょう。これに対し他国防衛のための武力行使は日本の主権維持作用ではありませんから、防衛行政の一部とは説明できず、また相手国を実力で制圧する作用であり、外交協力ともいえません。従いまして、集団的自衛権の行使として正当化される他国防衛のための武力行使は軍事権の行使だと言わざるを得ず、越権行為としても憲法違反の評価を受けます。

 では、自衛のための必要最小限度の武力行使とはどのような範囲の武力行使をいうのでしょうか。法的にみた場合、日本の防衛のための武力行使には、自衛目的の先制攻撃と個別的自衛権の行使の2種類があります。前者の自衛目的の先制攻撃は、日本への攻撃の具体的な危険、すなわち着手がない段階で、将来、武力攻撃が生じる可能性を除去するために行われる武力行使を言います。

 他方、後者の個別的自衛権の行使は、日本への武力攻撃の具体的な危険を除去するために国際法上の個別的自衛権で認められた武力行使を言います。武力攻撃の具体的な危険を認定するには攻撃国の武力攻撃への着手が必要であり、着手がない段階での攻撃は必要最小限度の自衛の措置には含まれないはずです。

 先ほど見た憲法13条は国民の生命、自由、幸福追求の権利を保護していますが、それらの権利が侵害される具体的な危険がない段階、すなわち抽象的な危険しかない段階で、それを除去してもらう安心感を保障しているわけではありません。従って自衛目的の先制攻撃を憲法9条の例外として認めることはできません。自衛のための必要最小限度の武力行使と認められるのは、あくまでも個別的自衛権の行使に限られるでしょう。これに対し、集団的自衛権が行使できる状況では、すでに外国に武力攻撃があり、国際法上は他国防衛のための措置であり、先制攻撃ではないとの反論も想定されます。しかし、国際法上の適法、違法と、日本国憲法上の合憲、違憲の判断は独立に検討されるべきものです。外国への武力攻撃があったとしても、それが日本への武力攻撃と評価できないのであれば、仮に国際法上は集団的自衛権で正当化できるとしても、それは他国防衛として正当化できるにとどまり、憲法上の自衛の措置としては違憲の先制攻撃と評価されます。

また、政府は最高裁砂川事件判決で集団的自衛権の行使は合憲だと認められたというかのような説明をすることがあります。しかし、この判決は日本の自衛の措置として米軍駐留を認めることの合憲性を判断したものにすぎません。さらに、この判決は自衛隊を編成して個別的自衛権を行使することの合憲性すら判断を留保しており、どう考えても、集団的自衛権の合憲性を認めたものとはいえません。

 以上のように日本国憲法のもとで許容されるのは、日本への武力攻撃の着手があった段階でなされる自衛のための必要最小限度の武力行使に限られます。このため集団的自衛権の行使は憲法違反になるとされてきたのです。

 つまり、わが国の存立が脅かされる事態だと認定できるのは、武力攻撃事態に限られると述べているのです。そもそも近代国家は主権国家ですから、法学的にはわが国の存立が維持されているかどうかは、日本の主権が維持できているかどうかを基準に判断されるはずです。国家間の関係のうち外交は相互の危険を尊重する作用、軍事は相手国の主権を制圧する活動ですから、国家の存立が脅かされる事態とは軍事権が行使された状態、武力攻撃を受ける事態と定義せざるを得ないのです。

 そうすると、昭和47年見解と矛盾しない形で存立危機事態を認定できるのは、日本自身も武力攻撃を受けている場合に限られるでしょう。しかし、現在の政府答弁はわが国の存立という概念について、ほとんど明確な定義を与えていません。また、存立危機事態は日本への武力攻撃がない事態では認定ができないという従来の説明を避け、石油の値段が上がったり、日米同盟が揺らいだりする場合には、日本が武力攻撃を受けていなくても存立危機事態を認定できるかのように答弁することもあります。

 わが国の存立という言葉を従来の政府見解から離れて解釈するのであれば、存立危機事態条項は日本への武力攻撃への着手のない段階での武力行使を根拠付けるもので、明確に憲法違反です。

 以上の見解は著名な憲法学者はもちろん、歴代内閣法制局長官ら憲法解釈の専門的知識を持った法律家の大半が一致する見解であり、裁判所が同様の見解を取る可能性も高いといえます。

 従って、これまでの議論を前提にすると、存立危機事態条項の選定は、看過しがたい訴訟リスクを発生させます。この条項が日本の安全保障に必要不可欠であるのであれば、そのような法的安定性が著しく欠ける形で制定すべきではなく、憲法改正の手続きは必須と思われます。

 ただし、日本と外国が同時に武力攻撃を受けている場合の反撃は国際法的には集団的自衛権でも個別的自衛権でも正当化できるでしょう。このため、同時攻撃の場合に武力行使をすることは、憲法違反にはならないものと解釈できます。では、今回の法案の存立危機事態条項についてどう評価すべきでしょうか。みなさんもうご存じの通り、存立危機事態という概念は、今回初めて登場した概念ではありません。昭和47年の政府見解は、わが国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることは禁じていないとしており、存立危機事態での自衛の措置をとることを認めています。

 昨年7月1日の閣議決定も、外国への武力攻撃によって存立危機事態が生じたときには昭和47年の政府見解とは矛盾せずに武力行使ができるという趣旨の議論を展開しています。見識論としてはその通りといえる面もあります。ただし、昭和47年見解は存立危機事態を認定し、憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られると明言しています。

また、そもそも現在の政府答弁では、わが国の存立という言葉があまりにも曖昧模糊(もこ)としております。解釈指針を伴わない法文は、いかなる場合に武力行使を行えるかの基準を曖昧にするもので、憲法9条違反である以前にそもそも曖昧、不明確ゆえに違憲と評価すべきでしょう。さらに内容が不明確だということは、そもそも今回の法案で可能な武力行使の範囲に過不足がないかを政策的に判定することができないということを意味します。

 どんな武力行使をするのかの基準が曖昧、不明確なままでは、国民は法案の適否を判断しようがありません。仮に法律が成立したとしても国会が武力行使が法律にのっとってなされているか判断する基準を持たないことになります。これでは政府の武力行使の判断を白紙で一任するようなものです。

 さて、日本への武力攻撃の着手がない段階で武力行使を認めることが憲法違反になるとの法理は、維新の党より提案のありました、いわゆる武力攻撃危機事態条項にもそのまま当てはまります。維新の党が日本への武力攻撃の着手のない段階での武力行使を認める条項であるとの解釈を前提にしたものであるなら、憲法違反のそしりを免れないと思います。従って、武力攻撃事態条項についてこれまで認めてこなかった個別的自衛権の拡張である、ないし、集団的自衛権の行使容認であるといった説明を行うことは不適切と思われます。

 ただし、維新案における武力攻撃危機事態条項は他国への攻撃が同時に日本への武力攻撃の着手になる場合に、武力行使を認めると解釈することもでき、また、そう解釈する限り合憲といえます。もっとも外国への攻撃が同時に日本への武力攻撃への着手になる事態であれば、現行法でも武力攻撃事態と認定ができるはずであり、個別的自衛権を行使することは可能です。この点は1975年10月29日の衆院予算委員会における宮沢喜一外相答弁以降、何度か確認されていることであります。従って維新の党のみなさまよりご提案のあった武力攻撃危機事態条項は武力攻撃事態条項の内容の一部を確認する条項だということになるでしょう。このような従来の法理を確認する条項は、法内容を明確にするという点では意義があります。

これまでにも従来の政府解釈、最高裁の判例、法理を明確に確認するために立法が行われている例は多くあります。逆に、維新案の内容を拒否した場合には、政府案が日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使を行う内容であることが明確になります。対案の提示は政府の考え方を明確にする一助になるという点でも意義があるものと思われます。

 以上述べたように、集団的自衛権の行使は憲法違反となります。もちろん、集団的自衛権の行使が憲法違反であるということは、集団的自衛権の行使容認が政策的に不要であるということまでを意味するものではありません。集団的自衛権の行使容認が政策的に必要であるのなら、憲法改正の手続きを踏み、国民の支持を得ればよいだけです。仮に改憲手続きが成立しないのであれば、国民が改憲を提案した政治家、国際政治、外交・安全保障の専門家、改憲派の市民の主張を説得力がないと判断しただけです。

 先ほど強調しましたように、国家は国民により負託された権限しか行使できません。軍事権を日本国政府に付与するか否かは、主権者である国民が憲法を通じて決めることです。憲法改正が実現できないということはそれを国民が望んでいないということでしょう。憲法を無視した政策論は国民を無視した政策論であるということを自覚しなければならないと思います。以上、終わります。

ーーーーーー以上。

「国家は国民により負託された権限しか行使できません。軍事権を日本国政府に付与するか否かは、主権者である国民が憲法を通じて決めることです。憲法改正が実現できないということはそれを国民が望んでいないということでしょう。憲法を無視した政策論は国民を無視した政策論であるということを自覚しなければならない」 ここはしっかりと踏まえていくべきポイントであると強く感じました。


安保法制公聴会 山口二郎法政大教授「60年安保で岸政権を退陣に追い込み、戦争に巻き込まれずに済んだ」

 

 私はまず、政治学の観点から戦後日本の安全保障政策の転換について、まずおさらいしておきたいと思う。今年は戦後70年の年であり、日本の来し方、行く末を考える重要な機会だ。従って、安全保障法制を戦後日本の歩みの中に位置付け、意味を考えてみたいと思う。戦後日本の国のかたちが大きく変化した契機は、1960年のいわゆる安保騒動だった。当時の岸信介首相は、憲法、特に9条を改正して国軍を持つことを宿願としていた。そのための第一歩として、安保条約の改定を図った。

 これに対して空前の規模の抗議活動が起こり、数十万の市民が国会や首相官邸を取り巻いた。当時の人々が新安保条約を理解していたかどうかはともかく、人々は岸首相が体現する戦前回帰、戦後民主主義の否定という価値観に反発して未曾有の運動を起こした。

 安保条約自体は衆院の可決により承認されたが、岸首相は退陣を余儀なくされた。自民党はこの騒動から重要な教訓を学び取った。憲法と戦後民主主義に対する国民の愛着が強いものであり、それを争点化することには大きなリスクが伴うという教訓だ。

 岸首相の後を襲った池田勇人首相は、憲法改正を事実上棚上げし、経済成長によって国民を統合する道を選択した。この路線は以後の自民党政権にも継承された。安全保障政策においても、憲法9条を前提とし、これと自衛隊や日米安保条約を整合的に関係づける論理が構築された。それが専守防衛という日本的平和国家路線であった。憲法9条のもとで、日本は自国を守るためだけに必要最小限の自衛力を持つという原理が確立した。海外派兵はしない。集団的自衛権は行使しないという原則は、そこから必然的に導き出されるものだ。1960年代以降の自民党政権は、この原理を定着させ、軍事力の行使について、禁欲的な姿勢を貫いた。まさに、戦後レジームは他ならぬ自民党が作り出した態勢であり、そのもとで日本は平和と繁栄を享受したわけだ。

 今回の安全保障法制に関連して、日本が他国の戦争に巻き込まれる恐れがある、という議論がある。戦後日本が他国の戦争に巻き込まれずに済んだのはなぜか。それは緊密な日米同盟のおかげではなく、日米安保条約のもと、日本が憲法9条により集団的自衛権の行使を禁止していたからであった。この点は、1960年代末のベトナム戦争への対応をめぐる日本と韓国の違いをみれば明らかだ。

 韓国は米韓相互防衛条約のもと、米国にベトナムへの出兵を求められ、韓国軍はベトナムで殺し、殺されるという悲惨な経験をした。集団的自衛権の行使を否定していた日本は、ベトナムへの派兵など全く考慮する必要もなかったわけだ。1960年の安保闘争で市民が岸政権を退陣に追い込み、憲法9条の改正を阻止したことで、日本は戦争に巻き込まれずに済んだ。このように、20世紀後半に非常に大きな効果を発揮した日本的平和路線が、21世紀も有効かどうか、今、問われている。

 確かにこの20年間の国際環境の変化は大きいものがある。中国の経済発展と軍事力の拡大、北朝鮮の核開発など、日本に隣接する地域での不安定性は増加している。日本は、自らの安全を確保するために、集団的自衛権の行使に転換する必要があるのか。私は違うと考える。

 日本の領域を守ることは、基本的には個別的自衛権によって対処すべき課題だ。この点を、安倍首相ご自身が国民の理解を得るためと称して、7月6日に行ったインターネット番組で使った表現を検討することによって、この点を考えてみたいと思う。首相は次のように述べた。一般の家庭でも戸締まりをしっかりしていれば泥棒や強盗が入らない。またその地域や町内会で、お互いに協力しあって、隣の家に泥棒が入ったのが分かったら、すぐに警察に通報する。そういう助け合いがちゃんとできている町内は犯罪が少ない。これが抑止力なんですね。

 この点で、私は珍しく安倍首相と意見が一致する。国を例に例えるなら、戸締まりをしっかりするのが自衛力の整備だ。しかし、門の外まで出張っていって、悪者退治に加わることは、自宅の安全に資する行為ではないと私は考える。また、近隣の人々と協力しあうことは、地域の安全にとって極めて重要だ。日本が協力しあう近隣とは、もちろん米国を中心とするわけだろうが、韓国や中国を抜きに町内会は構成できないはずだ。

 自衛力を整備しつつ、隣家との利害の違いは認識したうえで、隣家との共存のために話し合いをすることこそ、自宅の安全を高める道ではないか。安倍首相のインターネットでの演説は、集団的自衛権の行使の理由を説明するものではなく、全く逆に、専守防衛と地域的協力が必要な理由を説明するものだった。私は、首相ご自身が何を実現したいのか、冷静に認識していただきたいと思う。

 安保法制を推進する政府・与党は、日本が集団的自衛権を行使することによって、日米の同盟関係がいっそう緊密化し、抑止力が高まると期待している。しかし、これは希望的観測というものではないか。米国は日米安全保障条約第5条が定めるとおり、自国の憲法上の規定および手続きに従って、条約上の義務を果たすにとどまる。米国が大規模な軍事力の行使を行う際、米国の憲法により、議会の承認が必要とされている。米国が中国との武力紛争を望んでいないことは明らかだ。

 尖閣諸島の問題についても、米国は日本の施政権の保有は支持しているが、領有権にはコミットしていない。米国は常に日中間の領土紛争は平和的に解決を求めていることも忘れてはならない。米中関係それ自体が今、決してうまくいっているわけではないが、両国は戦争は何としても避けるという前提で、粘り強く対話しようとしている。それに引き換え、日本が中国との対話や相互理解はそっちのけで、自国が武力行使をする可能性を拡大すれば、より安全になると主張しているのは、政治的に稚拙ではないかと思う。

 次に、安全保障法制が抱える問題点について考えてみたい。そもそもこの法案は、専守防衛を逸脱するものであり、憲法違反であると私も考える。それに加えて、特に憂慮すべき点も指摘したいと思う。

 第一は、武力行使が可能となる状況の規定だ。法案では、存立危機事態、重要影響事態という新しい概念が提示され、それぞれにおいて、日本が集団的自衛権を行使できるとされている。しかし、国会審議においても、2つの事態の意味が明確に定義されることはなかった。

 状況がどの事態に該当するかを判断する際の考慮事項は例示されたが、実際の判断は、政府が総合的に決める、という答弁しかなかった。これでは存立危機事態も重要影響事態も、武力行使を制約する縛りにはなりえない。政府は集団的自衛権の行使にあたって非常に大きな裁量を手にすることになる。日本が他国の戦争に巻き込まれる危険性が高まるという批判は、この点を捉えている。また、自衛隊による後方支援活動について、それを行える場所と行えない場所の線引きはなくなった。

 従来は、戦闘地域と非戦闘地域という一応の概念的区別が存在した。この区別は、現場の指揮官が他国軍隊の武力行使と一体化する恐れについて、その都度判断することの困難を踏まえ、余裕を持って一律の判断ができるための配慮として設けられたものだった。今回の法制で、現に戦闘が行われていない地域において、自衛隊は他国軍に対して後方支援が行えるとされている。自衛隊が行うと想定されている武器弾薬の提供や、燃料の供給は、武力行使と一体の行為だ。この点で後方支援活動は憲法違反だと私は考える。

 第二は、あまりに空想的な、希望的観測の上に法制が構築されている点だ。重要影響事態における後方支援活動について、現に戦闘が始まったら撤収するから危険ではないと説明されているが、これほど荒唐無稽な空論はない。現に戦闘が行われていない地域であっても、いつ何時、本格的な戦闘が行われるか分からない。古来、戦争において糧道を断つことは戦術の常識だった。自衛隊が同盟軍に、武器燃料等の補給を行えば、相手方にとって自衛隊は敵軍だ。当然、補給を断つ攻撃を仕掛けてくることは明らかだ。後方支援の本質は兵站だ。後方支援だから危険ではないという言い分は、日本政府が国民に気休めを与えるための机上の空論だ。後方支援であれ、他国の武力行使に一体化することは、戦争への参加を意味する。このことは自衛隊員の危険を高める。また、日本国内に生活する国民の危険をも高める。米国によるイラク戦争に参戦した英国とスペインで大規模なテロが発生し、多くの市民が犠牲になったことを忘れてはならない。

 私はもちろん、テロを正当化したいわけではない。戦争に参加する以上、相手方からのさまざまな攻撃を受ける危険があるという現実を包み隠さず、自衛隊員と国民に告知することが指導者の責務だと言いたいのだ。

 さて、今回の安保法制の議論を契機に、日本政治の劣化と民主主義原理の浸食が明らかになっていると私は思う。まず、安倍首相は野党の質問に対して、自分は総理大臣だから正しいとか、合憲、安全だと確信していると答え、それ以上議論を深めようとしていない。中世のヨーロッパ人は太陽が地球の周りを回っていると信じていた。確信の強さは信じている事柄の正しさとは無関係だ。根拠と論理を示して説明することが為政者の義務だが、国会の審議は空洞化していると言わざるを得ない。

 また、自民党の高村(正彦)副総裁は、3人の憲法学者が衆議院の憲法審査会で安保法制を意見と断じたことに反発し、憲法学者は憲法の字面にこだわるとか、学者の言う通りにして平和が守れるか、と述べた。学者の端くれとして、これには断固として反論しておきたいと思う。そもそも、憲法学者が憲法の文言にこだわるのは当然だ。それは、数学者が1足す1は2である、という数式にこだわるのと同じだ。高村氏の発言は、政治権力は論理をねじまげることもあるという含意を持っていると私は解釈する。氏は、1足す1が、為政者の意向次第で3にも4にもなるような独裁国家を作りたいのかという疑問を私は抱くわけだ。

 今年は戦後70年だが、天皇機関説事件から80年でもある。権力が学問を弾圧してから敗戦で国が滅びるまでわずか10年だったという事実を今ここで思い起こすべきだ。私は学者の言う通りにすれば国が平和になるなどと、おごったことを言うつもりはない。逆に、政治家の言う通りにして国が愚かな戦争に突入した経験もあるわけだ。戦後日本を振り返れば、政治家と学者が異なった観点から議論し、それらの議論が正反合の関係で、日本的平和国家の路線を作り出したという成功体験があることをかみしめるべきではないか。

 先般の自民党文化芸術懇話会における沖縄差別や報道機関統制の発言は、自民党という偉大な政権政党の変質を物語っていると私には思えた。あの会合で気勢を上げた政治家に共通するのは、実証性、客観性を無視して、自分の欲するように世界を解釈するという反知性主義の態度だ。あの事件が発覚した直後、政府・与党の首脳は、同懇話会に参加した政治家にも発言の自由がある、と擁護した。従って、同懇話会の反知性主義は局部的現象ではないと言わざるを得ない。

 国の安全を最後に担保するのは冷静な状況認識と現実感覚を持った政治指導者だ。政治の世界に反知性主義が蔓延(まんえん)する現状において、安保法制が成立し、日本が集団的自衛権を行使できるようになったら、日本の政府は日本の安全と国益を守るために冷静な判断を下すのだろうか、という疑問を持つ。武力行使の範囲が広がる一方で、政治家の現実主義的な判断能力が低下する、このギャップこそが日本にとっての存立を脅かす事態だと私は憂慮している。以上だ。

 

 

以上、サンケイWEBより。 

山口二郎氏の発言には昨今の自民党政府について自民党文化芸術懇話会における沖縄差別や報道機関統制の発言を掲げ「反知性主義」と称していた。これは日曜日に鶴岡で講演された片山元総務大臣も同様の指摘をされていた。同感である。