新潟水害
7月15日水曜日、みどりの会議の反省会にいくとき、三条市をとおる新幹線から、でっかい湖のようなものが見えた。水は引いていない。とにかく、メディアの情報はあてにならない。早く現場にはいらなければ と思いながら遠くに広がる茶色い水面をみつめた。
16日は、午前中議会だより編集委員会。午後から準備。諸々あって、夜出発。
17日、深夜午前2時。三条市にはいる。車でぐるりとまわってみる。家がつぶれている。たくさんの家財道具がすでに表にだされ乾かすのを待っていた。小雨がぱらついている。
ぐるりぐるりと街の状況をみながらしばらくして、偶然ながら、県民福祉センターというところに着いた。Kさんから、ボランティアセンターがたちあがった場所の名前だった、社会福祉協議会もあり、ここかと思った。
いってみると2人のちょうど僕と同年代ぐらいの社教の職員の方が膨大な物資を前にして迎えてくれた。
センターの中にはいってみて良く見てみると一部の床の一面が泥で茶色かった。そして、コピー機や、事務用デスク、椅子などが、積み上げられていた。「ここも水没したんです。私の車もここの駐車場においていたんですが、運転席の窓ぐらいまで水没で動きません。そういえば、さっき通ったコロナの会社の駐車場から、泥だらけの車が、つぎつぎと運搬車につまれていた。「5千台ぐらいはいっているんじゃないですかね」彼はいった。
五十嵐川の決壊を予期する人は誰もいなかった。あれよあれよという間に決壊。100年に一度の洪水に備えるというダムが2つもあるのに、あのありさまだ。
その福祉センターには50名の避難民がいるのだと聞いた。「今日も、結構な雨が降って、その住民の間では、また、「きれた」とか、今度は上流部だとか、デマ情報もとびかって 結構おびえているんですよ。
なお、このセンターのま周辺には、パール勤続や「ムサシ」があり、当初から、ボートやキャンプ道具などの提供がおこなわれたそうで、このセンターの前にも、5艇ぐらいのゴムボートが積んで合った。
車中泊。
朝、あけて、午前7時、Kさんからの電話でおきる。朝のうちに写真はとっておいたほうがいい。アドバイスをうけ、写真をとってまわる。決壊の現場を見ようと対岸に車をおいて歩くと、2人の中年女性が決壊した場所を指さしながら、話をしていた。「おはようございます」と話の輪にはいる。対岸すぐのところに暮らしていると聞いた。「いきなり水があがってね。上の方のくぼ地が危ないとかいって騒いでいたら、すぐに、あの部分がきれたのよ。もう、ものすごい波でこわかったよ」
とにかく音がすごかった。と、今でもまだ濁流色の茶色い五十嵐川を指さして話してくださった。
決壊してからは、一日中ヘリは飛んでくるし、マスコミのテレビはずっとはりついていてす大騒動だったと聞いた。
決壊の現場にいった。大きなナイロン袋につめられた土のうが数百つまれ、
その決壊現場から、100メートルぐらいにはひっくり返った車が砂で埋まっていたり、ぽつんと泥の真ん中に車や小屋が浮いているといった、状況。
そしてその周辺の家々は、地面から2メートルぐらいのところに泥の跡がついていた。「今のうちにだめになった家財道具をださなくちゃ」そうした家族たちによって懸命に、駄目になった家財道具が次々と表にだされている。
これは人手がいる。とても親戚縁者でできるお片づけではない。
かなりの長期戦だ。
今朝の新潟日報。「きょうも大雨恐れ」とある。被災現場にこれ以上の雨がふらないように祈る。また、村上、鶴岡は今激しい雨が降っているようだが、無事なことを祈る。
7時で、相当の人が動き始めていた。運良く今朝は小さな晴れ間がのぞいている。親戚の人、友人をかきあつめて、作業がおこなわれていた。
ボランティアセンターには、昨日、300名もの申し出があったそうだ。。素晴らしい。また、市民の新しい文化をはじめよう。新しい自分、新しい日本に出会える現場が動き始めた。