新潟小千谷市より24日から26日朝までの被災地報告
10月26日火曜日 午前9時 小千谷市より
10月24日 日曜日、午前10時。新潟に向かう。神戸で一緒に活動した有志で新潟で炊き出しをしようということになり、食材、鍋、五徳、ガスボンベなどを調達。500人分ぐらいの「元気鍋」をつくろうという計画。
高速は新潟から乗り、三条止まり。三条のプロパンガス屋、「コメリ」でガスボンベ調達。今朝、小千谷までいってきたという店員のひとりが、小千谷まで行く道のりの険しさと、通常の8号は途中までしか行けないことを教えてくれる。山川の道に迂回しないといけないということ。それをたよりに車を走らせる。途中、4輪駆動でもがっくんと乗り上げる亀裂や、かなりの上下運動を伴う路線のうねりを感じながら小千谷を目指す。
結局小千谷に到着したのが午後7時をまわった頃。市役所内の災害対策本部に行く。役所職員と報道機関の人間で本部はごった返していた。当日朝9時から入り諸々の現地状況を調査していた、衆議院議員の市村浩一郎氏(神戸で一緒に活動した仲間です)が迎えてくれた。壁にはびっしり、被災者の情報、道路情報、倒壊家屋、避難場所などを書いた紙がはってあった。
情報はまだどんどん変化している。
避難場所は、約2千人避難しているという総合体育館をはじめ、公的建物の他に自主的に空き地や駐車場単位で固まって暖をとって、休んでいるところがあり、この状況については詳しくは役所では把握できていないようだった。ただし救援物資を平均して配る必要性があるため、その把握について、役所も苦労しているようだった。
夜、停電で信号も街頭も付かないまっくらな街のところどころに、食事をしたり暖をとるたき火の火が見えた。そして多くの人が車の中で寝ている。
現場にはいって突然何回か余震があった。結構揺れる。震度3〜4ぐらいは日常的に「あ、またか」という感じでおきている。
災害対策本部で情報収集しているとそのうち元神戸元気村 吉村誠司君 が到着。彼は、豊岡の水害現場でカヌーでの救出作戦をおこない、豊岡のボランティアセンターの立ち上げを行った後、新潟に向かってくれた。600キロの道のりを走って来てくれた。
夜、災害対策本部で避難所の状況や物資の状況、そして次の日の炊き出しをする場所を確認するための打ち合わせした。孤立してほとんど着の身着のままヘリに乗って避難するしかなかった山古志村の方々が避難しているという小千谷高校の体育館がいいのではというアドバイスをうけて、そこで行うことに決定。周辺にいた報道各社に手書きリリースを手渡す。
深夜、吉村氏と一緒に周辺を調査する。幹線道で地割れがおこり1メートル者段差ができているところがあった。倒れている電信柱。斜めに傾いたアーケードや電信柱。雪国で家が強いせいか倒壊家屋の数は神戸には全然及ばないが、ところどころに震度6強という地震の強さを物語る跡が見られた。
●震度6弱の余震
25日月曜日 朝、午前5時ごろ震度6弱の地震にたたき起こされる。
月曜日の朝の余震6度弱 と聞いたが、荷物満載のワゴン車の運転席と助手席で、市村氏とともに車の中で仮眠をとっていたのだが、直前に目が覚めて、ぐぐぐと下から突き上げるような揺れを感じ、30秒ぐらい、電信柱、建物がみしみしと揺れ、ばらばらと小さな破片が落ちた。結構被害がまた増えたのではないだろうか、というぐらいひどい揺れだった。また驚いた。
●小千谷市塩谷地区からのヘリでの被災者の方への「元気鍋」
朝から炊き出しの準備。下見にいくと大体200名ぐらいの方が体育館にいらした。外での炊き出しになる。雨がちょっと心配だった。うーむ屋根かということになる。テントは準備していなかった。あれを使おう。と吉村氏が指さした。サッカーゴール。それにビニルシートをかければいいじゃないか、ということになった。そうなったら、そこにいる人の動きは素早かった。
あっと言う間にサッカーゴールを運び、シートかけが終った。立派な屋根ができた。その後、6人集まった神戸、埼玉、山形、の有志で、大量の里芋や10キロの豚肉などを現場におろし、地元の人にも呼びかけて一緒に準備をはじめた。
早速おばさんたちが、みんなで芋の皮むきをはじめてくださった。
男性は火の番をしてくれた。とても結束間の強さを感じた。どんどん料理をする輪がひろがって、用意していた包丁の他にもどこからか調達した包丁をもってどんどん芋煮つくりの輪が広がっていった。持っていった里芋、じゃがいも、にんじんなど全部皮むきが終わり、煮込む。
お昼になりようやく完成。差し出して「ありがとう」といって受け取って「ああ、あったかいものはいいね」と思わず涙ぐむご老人がいた。みんな満面の笑顔だった。1回目で大体200食。あっという間になくなった。その場で「おいしい、おいしい」といって平らげていただいた。
良かった。
神戸元気村のはじめの活動が、「元気鍋」だった。「元気鍋」の特徴はただ、ボランティアだけで完全に全部やるというよりも、被災者の方にもよびかけてみんなで鍋をつくろうという炊き出しだ。そのやり方を行うと、鍋と燃料と食材さえあれば被災者のみなさんの力によって炊き出しを続けることができる。
こうするとボランティアスタッフは次の火付け役にまわることができる。これが「元気鍋」だ。当時の元気村では炊き出し隊長のとーる氏(現四万十塾)を中心に神戸ではほぼ3月末まで炊き出しは毎日続いた。2月ぐらいには一日7千食を越える炊き出しを数ヶ所でやっていた。神戸のときも、兄を失い、家も倒壊してしまった方なのだけれど「今、がんばらんと」と毎日懸命に鍋づくりをしていただいた方がいた。包丁を持つことで元気になるお母さん達もいた。炊き出し一つでもいろんな知恵をつかえば「元気」になれる要素がある。
「元気鍋」方式により鍋も野菜の残りも五徳も、予備ボンベ付きでプロバンガスボンベもこの方式で避難所に置いてきた。
とにかく今、炊き出しがトップニーズ。現地に入るのは何人でもいい。ガスボンベ、水、大きな鍋、大量の野菜をもってグループ単位で、現場に駆けつけてほしいと思うのだ。
地震翌日25日午前9時から現地にいて、いろいろ情報を提供してくれた市村氏、そして、豊岡水害から駆けつけた吉村氏と炊き出しを終えてその後、数ヶ所の避難所にいってみる。約3千人もの方が避難されている総合体育館。 超巨大な体育館に3千人が地べたにそのまま毛布を敷いて、雑魚寝状態で休んでいる。お