もう一つの生き方
今日、5時46分。鶴岡。私の事務所コモンズでテレビをつけ、神戸の方向を向いて黙祷する。6434名の犠牲。がれきの山の町。サイレンとヘリコプターの音 黒々とした煙。遺体。絶望的な情景は今でも心に焼き付いている。そしてこの日。毎年ろうそくの炎を見ながら、一瞬のうちに消えてしまった命と、あの社会を振り返る。
「ボランティア元年」という言葉を生み出し、「神戸から未来が見える」と現在、朝日新聞の報道局長の外岡さんは書いた。あのとき見えた光は今、どうなのか。
市民社会の到来を、希望の光として見ていたあの頃予期したような社会になっているのだろうか。
今朝のNHKの番組で当時 ちびくろ救援隊を組織し、一緒に活動していた村井さんがNGO CODEの代表としてとても大切なメッセージを発信してくださった。「絆」と「もう一つの生き方」という事だ。
中越で元気に活動している良太君の姿もカメラは捉え、着実に支援をおこなっているなあと感動したし、CODEの仲間たちのとてもいい顔が、テレビに映されることはとてもうれしい。
元気村の時、テント生活150日、スーパーハウスに1年半。暮らしながらも僕らの心は何か満たされていた。全国から集まる寄付金で、なんとかかんとかやりくりをし、日々の活動を続けていた。アルバイトをするよりも、今、神戸にどれだけ愛を注げるか
。そうした意志をもって行動するか。なんて、まともに考えて、日々を過ごしていた。
今、僕はそのときの気持ちのまんまで、ダム反対運動も、地下水保全の活動も、平和の活動も、理不尽を指摘し変える活動も、そして市議会議員の活動もやっているつもりだ。
もう一つの生き方。金が真ん中にあるのではない。愛が真ん中にある活動。その行動に一歩踏み出した時のエネルギーの高まりと、それを受け止めてくれたときの感動
そして同じ思いでつながる絆。
米国サンフランシスコのNPOにインターンしたとき。このエネルギーのまんま、それを職業として闊歩する多くの人たちに出会った。社会をよく変えることが職業。
ほぼ普通の会社の給料と同じぐらいの給与で、実に堂々と、活動をしているスタッフたち。米国の社会がすべていいわけではないが、お手本はいろんなところにあるのだ。
震災から12年目。彼らとももう一度情報交換をしながらこの鶴岡、山形、そしてこの日本で何をすべきか考えていきたい
なお、神戸元気村、当時の映像をウェブ公開します。「もうひとつの生き方」というものに踏み出しはじめた僕が映っています。 どうぞご覧ください
→ちょっと長すぎて視聴困難とのことでしたので半分ずつ二分けました。今度はご覧になれると思います。どうぞ。
http://homepage.mac.com/stern8/iMovieTheater30.html
http://homepage.mac.com/stern8/iMovieTheater31.html
http://homepage.mac.com/stern8/iMovieTheater29.html