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放送規制問題に関する立憲デモクラシーの会が出した見解


 立憲デモクラシーの会が出した見解(原文のまま)。

 

放送規制問題に関する見解

                   2016年3月2日

Ⅰ 放送法の4条1項は、国内放送の番組は、いくつかの原則に即して編集されるべきことを求めている。その中には、「政治的に公平であること」(同項2号)および「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」(同項4号。「論点の多角的解明義務」と呼ばれる)が含まれる。

 テレビ局を含む放送事業者にも、憲法21条の規定する表現の自由は保障される。表現活動への規制が全く許されないわけではないが、表現の自由が民主的政治過程の不可欠の要素であること等から、表現活動の規制は慎重になされるべきであるし、とりわけ表現の内容に基づく規制は、原則として認められないと考えられている。

 第一に、表現の内容に基づく規制を政府が行う場合、特定の立場からの表現(政治的言論や宗教的宣伝)を抑圧・促進するという、不当な動機を隠している蓋然(がいぜん)性が高く、第二に、表現活動の内容に基づく規制は、言論の自由な流通と競争の過程を歪曲(わいきょく)する効果を持つからである。

 放送法が定める政治的公平性と論点の多角的解明の要請は、明らかに表現の内容に基づく規制である。しかし、放送法上のこうした表現の内容に基づく規制は、日本国憲法の下でも、一貫して合憲であるとの前提の下に運用されてきた。そして、新聞・雑誌・図書といった紙媒体のメディア(プリント・メディアと呼ばれる)と異なり、放送については特殊な規制が認められるとの考え方は、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を含めて、多くの国々で採用されている。

 伝統的には、放送の二つの性格──放送の使用する周波数帯の稀少(きしょう)性と放送の特殊な社会的影響力(impact)──から、放送については特殊な規制が許されると考えられてきた。ただ、こうした伝統的な規制根拠論には、今日、さまざまな疑問が提起されている。第一に、技術の高度化にともなって放送メディアが増大するとともにきわめて多様化しており、すべての放送が同じように特殊な影響力を持つとも、インターネットをはじめとする他のメディアに比べて強い影響力を持つとも、言えなくなっている。また、テレビの総合編成のチャンネルに限っても、地上波衛星波を含めるとその数が総合編成の新聞の数に比べて稀少であるとは必ずしも言えない。

 さらに、そもそもの問題として、ある財が稀少であることは、その財を公的に配分しなければならないとか、使用法を公的に規制しなければならないことを必ずしも意味しない。市場で取引される財はすべて稀少であるし(だからこそ価格に基づいて取引される)、自他の身体や家財への損害をもたらさない限り、使用方法がとくに公的に規制されるわけでもない。

 こうした背景から、規制された放送と自由な新聞とを併存させることで、マスメディア全体が、社会に広く多様で豊かな情報を偏りなく提供する環境を整えるとの議論など、伝統的規制根拠に代わる新たな規制根拠を探る動きもあるが、稀少性と社会的影響力の点で他のメディアと区別が困難となった以上、放送固有の規制は撤廃し、表現の自由の基本原則に復帰すべきであるとの議論も有力である。放送規制の将来は、定まっているとは言い難い。

 

Ⅱ Ⅰで述べた議論は、日本に限らずリベラル・デモクラシーと言い得る国に一般的にあてはまる。これに加えて、国それぞれの特殊性もある。日本の特殊性は、放送法制の企画立案にあたる政府の官庁(総務省)が、同時に放送事業者に対する規制監督機関でもあるという点にある。アメリカやヨーロッパ諸国では、放送法制の企画・立案にあたるのは政府直属の官庁であるが、監督権限を行使するのは、政府から独立した立場にあり、政府の指揮命令を受けることなく独立して職権を行使する機関である。これは、放送メディアに対する規制権限の行使が特定の党派の利害に影響されないようにするための工夫である。

 そうした制度上の工夫がなされていない日本では、放送規制のうち、とりわけ番組内容にかかわる政治的公平性や論点の多角的解明義務について、果たして十全の法規範と考えてよいのか、という問題が議論されてきた。学界の通説は、放送事業者の自主規律の原則を定めるという色彩が極めて強いと考えざるを得ないというものである。

 放送法4条1項の条文は、そのままでは政治的公平性や論点の多角的解明という抽象的な要請を定めているにすぎず、具体的場面においてこの原則をどのように具体化すべきかは、ただちには判明しない。人によって、それこそ見解は多岐に分かれるであろう。それにもかかわらず、こうした抽象的原則を具体化した規定をあらかじめ設けることもなく、議会与党によって構成され連帯責任を負う内閣に属する総務大臣に指揮命令される形で放送内容への介入がなされるならば、放送事業者の表現活動が過度に萎縮することは免れないし、権限濫用(らんよう)のリスクも大きい。漠然とした放送法4条の文言のみを根拠として、政党政治からの独立性が担保されていない主務大臣が放送事業者に対して処分を行えば、適用上違憲との判断は免れがたいであろう。

 2016年2月8日の衆院予算委員会で、高市早苗総務大臣は、放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命ずる可能性に言及した。「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の反応もしないと約束するわけにいかない」と述べたと伝えられている。

 電波法76条は、条文上は放送法違反の場合に停波を命ずることができるようにも読めるが、憲法上の表現の自由の保障にかんがみるならば、放送法4条違反を停波の根拠として持ち出すことには躊躇(ちゅうちょ)があってしかるべきである。高市大臣は、政治的公平性に反する放送が繰り返された場合に限定することで、きわめて例外的な措置であることを示したつもりかも知れないが、公平性に反すると判断するのが政党政治家たる閣僚であるという深刻な問題は依然として残る。

 放送法自体、その1条2号で、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」を放送法の根本原則として掲げている。放送事業者の自律性の確保の重要性は、最高裁判所の先例も度々、これを強調してきた。このことも忘れてはならない。

 

Ⅲ さらに高市総務大臣は、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」を、政治的公平性に反する事例とした具体的に挙げたと伝えられている。国論が現に二分されている以上、一方のみの見解を報道し、他方の見解の存在を報道しないという選択は、実際上、想定不可能である。大臣が言わんとするのは、一方の見解のみを支持し、他方の見解を支持しないことが、政治的公平性に反するということであるとしか考えにくい。

 放送法4条が要求しているのは、党派政治の対立における公平性──不偏不党──であって、個々の政治的論点について、放送事業者が一定の立場を支持する報道をしてはならないということではない。論点の多角的解明義務に即して多様な立場を紹介した上で、特定の立場を放送事業者が支持することは、当然あり得る。これを否定することは、憲法21条違反である以前に、放送法の解釈として誤りを犯している。

 「国論を二分する政治課題」で一方の政治的見解のみを支持する内容を相当時間にわたって繰り返すことは、政治的公平性を求める放送法に違反すると高市大臣は主張するが、そこでの国論を二分する政治課題なるものが、違憲の疑いのきわめて強い法案を国会で可決・制定すべきか否かという論点であり、しかも、その違憲性が、日本国憲法の根幹にかかわる原理原則にかかわる場合はどうだろう。そこでも、単純・機械的に賛成論と反対論を紹介し、自分自身は何らの見解も示さないのが、報道機関たる放送事業者のあるべき態度であろうか。

 放送事業者のよって立つべき憲法自体が攻撃されているとき、放送事業者に対しても、憲法の敵と味方を単純・機械的に対等に扱うよう法的に強制すること、憲法の基本原理への攻撃をも、それを擁護する主張と対等・公平に扱うよう強制すべきだとの主張は、憲法の基本原理自体と齟齬(そご)を来す。



憲法と法律との違いって? 立憲主義ってこういうこと?


憲法と「立憲主義」。

安倍総理は、在任中の憲法改正を考えていると3月3日、明らかにしました。

「憲法」。改めてちょっと考えてみましょう。

そもそも憲法って何でしょう? 法律と憲法ってどう違うのでしょう?

私自身も憲法については、中学、高校の「政治・経済」や大学一般教養などで学んできているはずなのですが、なんだか「法律の親分」のようにしかならってこなったのようにも思えます。皆さんはいかがでしょうか?

私は特にこの数年、伊藤真先生や、小林節先生の講演を聴き、著書を読む中で改めて、憲法と法律が全く別のものだと鮮明に解りました。

そこで、伊藤真先生の講演などを参考に、この絵を改めてつくってみました。

憲法の構造 のコピーまずは、この図です。

現在の日本国憲法は、先の大戦の反省を元に「二度と戦争を引き起こさない事と、国民個人の自由や人権を守るために定められました。

現在、私達国民は、法律を守る義務があります。しかしながら、基本的には憲法を守る義務はありません。それは、そもそも憲法は、国民が、国家権力が暴走しないように定めたルールブックだからです。この図で、法律は上から下のベクトルで、権力が国民を制限する。しかし、憲法は下から上のベクトルで、国民が、憲法によって国家権力を縛る。しかもその憲法はあらゆる法の最高法規として定められています。

憲法を守らなくてはならないのは、国家の権力をもつ政治家や公務員、天皇であり、(99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。) 全ての法律は最高法規である憲法を乗り越えてつくることができないとされています。

この、「全ての政治が憲法の下でおこなわれる」という事が「立憲主義」ということです。

しかし、今、「改憲」論を振りかざす安倍自民党が掲げている自民党憲法草案は下の絵の右側の構図です。

憲法と自民草案イラスト

国民が国家権力を縛る道具が憲法であるはずなのに、自民党草案では国民に様々な義務を押しつけようとしている。つまり、憲法を国民を更に縛る道具にしようとしているのです。

憲法学者の小林節先生はおっしゃっています。

この改正案の最も大きな不安は、「立憲主義が後退するのではないか」ということです。

「国家が国民に義務を押し付ける」ことは、日本国憲法の根本理念に反します。自民党は、憲法が何かをわかっていないのです。たとえば、酔っ払い運転の取り締まりを厳しくしたり、借りたお金を踏み倒す人を少なくしたりしようと思えば、国は刑法や民法を改正します。それと同じことを、憲法という根本法を改正してやろうとしているわけです。

 しかし、いわゆる「六法」と呼ばれているなかで、憲法とその他の法律(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法)は、性格が全く違うもの。憲法は国民を規制するものではなく、権力者の横暴を規制する法規範なのです。しかし、日本人の多くは、憲法を単に民法や刑法のような法律の「親玉」くらいにしか思っていない。そこが問題なのです。」

今、私達は現在の日本国憲法の下で、政治を行う立憲民主主義国家、日本に暮らしています。立憲主義が破壊されれば専制主義、独裁国家への道となります。

一昨年の7月1日の集団的自衛権の行使容認を閣議決定で決めた憲法違反は、憲法で縛られる当人たちが解釈を変えた悪質な憲法違反

昨年9月19日の「安保法制=戦争法」の強行採決は、法律が憲法9条を超える憲法違反

国会議員の4分の1が求めても国会を開かない。これも憲法違反。

この3月で報道ステーション、ニュース23、クローズアップ現代のメインキャスターの方々が、続々とお辞めになる。そして高市大臣のまるで戦前の言論統制のような法解釈の発言については、海外メディアでも取り上げられているようですが、あるまじき言論封じであり、これも憲法違反と憲法学者から指摘されています。(立憲デモクラシーの見解を後に添付します。

憲法違反だらけの安倍政治。今の姿勢を見れば、改憲の目的が見えてくるようです。

 


 

 

                       2016年3月2日

放送規制問題に関する見解

立憲デモクラシーの会

Ⅰ 放送法の4条1項は、国内放送の番組は、いくつかの原則に即して編集されるべきことを求めている。その中には、「政治的に公平であること」(同項2号)および「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」(同項4号。「論点の多角的解明義務」と呼ばれる)が含まれる。

 テレビ局を含む放送事業者にも、憲法21条の規定する表現の自由は保障される。表現活動への規制が全く許されないわけではないが、表現の自由が民主的政治過程の不可欠の要素であること等から、表現活動の規制は慎重になされるべきであるし、とりわけ表現の内容に基づく規制は、原則として認められないと考えられている。

 第一に、表現の内容に基づく規制を政府が行う場合、特定の立場からの表現(政治的言論や宗教的宣伝)を抑圧・促進するという、不当な動機を隠している蓋然(がいぜん)性が高く、第二に、表現活動の内容に基づく規制は、言論の自由な流通と競争の過程を歪曲(わいきょく)する効果を持つからである。

 放送法が定める政治的公平性と論点の多角的解明の要請は、明らかに表現の内容に基づく規制である。しかし、放送法上のこうした表現の内容に基づく規制は、日本国憲法の下でも、一貫して合憲であるとの前提の下に運用されてきた。そして、新聞・雑誌・図書といった紙媒体のメディア(プリント・メディアと呼ばれる)と異なり、放送については特殊な規制が認められるとの考え方は、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を含めて、多くの国々で採用されている。

 伝統的には、放送の二つの性格──放送の使用する周波数帯の稀少(きしょう)性と放送の特殊な社会的影響力(impact)──から、放送については特殊な規制が許されると考えられてきた。ただ、こうした伝統的な規制根拠論には、今日、さまざまな疑問が提起されている。第一に、技術の高度化にともなって放送メディアが増大するとともにきわめて多様化しており、すべての放送が同じように特殊な影響力を持つとも、インターネットをはじめとする他のメディアに比べて強い影響力を持つとも、言えなくなっている。また、テレビの総合編成のチャンネルに限っても、地上波衛星波を含めるとその数が総合編成の新聞の数に比べて稀少であるとは必ずしも言えない。

 さらに、そもそもの問題として、ある財が稀少であることは、その財を公的に配分しなければならないとか、使用法を公的に規制しなければならないことを必ずしも意味しない。市場で取引される財はすべて稀少であるし(だからこそ価格に基づいて取引される)、自他の身体や家財への損害をもたらさない限り、使用方法がとくに公的に規制されるわけでもない。

 こうした背景から、規制された放送と自由な新聞とを併存させることで、マスメディア全体が、社会に広く多様で豊かな情報を偏りなく提供する環境を整えるとの議論など、伝統的規制根拠に代わる新たな規制根拠を探る動きもあるが、稀少性と社会的影響力の点で他のメディアと区別が困難となった以上、放送固有の規制は撤廃し、表現の自由の基本原則に復帰すべきであるとの議論も有力である。放送規制の将来は、定まっているとは言い難い。

 

Ⅱ Ⅰで述べた議論は、日本に限らずリベラル・デモクラシーと言い得る国に一般的にあてはまる。これに加えて、国それぞれの特殊性もある。日本の特殊性は、放送法制の企画立案にあたる政府の官庁(総務省)が、同時に放送事業者に対する規制監督機関でもあるという点にある。アメリカやヨーロッパ諸国では、放送法制の企画・立案にあたるのは政府直属の官庁であるが、監督権限を行使するのは、政府から独立した立場にあり、政府の指揮命令を受けることなく独立して職権を行使する機関である。これは、放送メディアに対する規制権限の行使が特定の党派の利害に影響されないようにするための工夫である。

 そうした制度上の工夫がなされていない日本では、放送規制のうち、とりわけ番組内容にかかわる政治的公平性や論点の多角的解明義務について、果たして十全の法規範と考えてよいのか、という問題が議論されてきた。学界の通説は、放送事業者の自主規律の原則を定めるという色彩が極めて強いと考えざるを得ないというものである。

 放送法4条1項の条文は、そのままでは政治的公平性や論点の多角的解明という抽象的な要請を定めているにすぎず、具体的場面においてこの原則をどのように具体化すべきかは、ただちには判明しない。人によって、それこそ見解は多岐に分かれるであろう。それにもかかわらず、こうした抽象的原則を具体化した規定をあらかじめ設けることもなく、議会与党によって構成され連帯責任を負う内閣に属する総務大臣に指揮命令される形で放送内容への介入がなされるならば、放送事業者の表現活動が過度に萎縮することは免れないし、権限濫用(らんよう)のリスクも大きい。漠然とした放送法4条の文言のみを根拠として、政党政治からの独立性が担保されていない主務大臣が放送事業者に対して処分を行えば、適用上違憲との判断は免れがたいであろう。

 2016年2月8日の衆院予算委員会で、高市早苗総務大臣は、放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命ずる可能性に言及した。「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の反応もしないと約束するわけにいかない」と述べたと伝えられている。

 電波法76条は、条文上は放送法違反の場合に停波を命ずることができるようにも読めるが、憲法上の表現の自由の保障にかんがみるならば、放送法4条違反を停波の根拠として持ち出すことには躊躇(ちゅうちょ)があってしかるべきである。高市大臣は、政治的公平性に反する放送が繰り返された場合に限定することで、きわめて例外的な措置であることを示したつもりかも知れないが、公平性に反すると判断するのが政党政治家たる閣僚であるという深刻な問題は依然として残る。

 放送法自体、その1条2号で、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」を放送法の根本原則として掲げている。放送事業者の自律性の確保の重要性は、最高裁判所の先例も度々、これを強調してきた。このことも忘れてはならない。

 

Ⅲ さらに高市総務大臣は、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」を、政治的公平性に反する事例とした具体的に挙げたと伝えられている。国論が現に二分されている以上、一方のみの見解を報道し、他方の見解の存在を報道しないという選択は、実際上、想定不可能である。大臣が言わんとするのは、一方の見解のみを支持し、他方の見解を支持しないことが、政治的公平性に反するということであるとしか考えにくい。

 放送法4条が要求しているのは、党派政治の対立における公平性──不偏不党──であって、個々の政治的論点について、放送事業者が一定の立場を支持する報道をしてはならないということではない。論点の多角的解明義務に即して多様な立場を紹介した上で、特定の立場を放送事業者が支持することは、当然あり得る。これを否定することは、憲法21条違反である以前に、放送法の解釈として誤りを犯している。

 「国論を二分する政治課題」で一方の政治的見解のみを支持する内容を相当時間にわたって繰り返すことは、政治的公平性を求める放送法に違反すると高市大臣は主張するが、そこでの国論を二分する政治課題なるものが、違憲の疑いのきわめて強い法案を国会で可決・制定すべきか否かという論点であり、しかも、その違憲性が、日本国憲法の根幹にかかわる原理原則にかかわる場合はどうだろう。そこでも、単純・機械的に賛成論と反対論を紹介し、自分自身は何らの見解も示さないのが、報道機関たる放送事業者のあるべき態度であろうか。

 放送事業者のよって立つべき憲法自体が攻撃されているとき、放送事業者に対しても、憲法の敵と味方を単純・機械的に対等に扱うよう法的に強制すること、憲法の基本原理への攻撃をも、それを擁護する主張と対等・公平に扱うよう強制すべきだとの主張は、憲法の基本原理自体と齟齬(そご)を来す。

以上

 

 



介護ー死と向き合う現場を再認識。+食の幸せ。


驚いた。

今朝、施設長から電話があって、1月までご利用されていた方の訃報を伺ったからだ。何度もドライブに一緒に行き、レクを楽しみ、毎週のようにご自宅まで送迎した方である。年末に家で嘔吐があり思うように食事ができないということでお休みになり、エンシュアなどをすすめたりしていたが入院。その後デイには戻れず施設入所されるとのことを伺っていた。笑顔を思い出すたびになんともつらい。改めて合掌。ご冥福をお祈り申し上げます。

これで私が昨年8月に施設に来てから3人目になる。定員12名のデイサービスの日常は、お風呂に入り、食事をし、レクを楽しみ、天気のいい日はドライブという6時間ほどの何気ない時間なのだけれども、ご高齢の利用者の方々にとっては今日が最後の日かもしれない。そうした死と直面する現場であるということを再認識する。日々「今」という時間と今、関わっている人との時間を大事にしよう。
 福祉施設に入所して頑張っていた親戚
の通夜葬儀も明日におこなわれる。

昨晩まで雪だった天気が晴天になった。春は間近とも思う。でもまだまだ寒く、ヒートショックも心配だ。季節の変わり目は体調を崩しやすいとも聞く。皆様もお体を大切に。

施設では昨日までの3日間。寿司屋へいく外食レクリエーションだった。僕も2日間同行した。行き先は市内の老舗寿司店 三幸寿司。1000円の寿司ランチだった。利用者のほとんど全員が参加。毎日、カウンターを占拠してしまいお店にはご面倒をかけた。もちろん美味しいお寿司を頂いて皆さん完食され、満面の笑顔。店主の川上祐士さんは、平成元年から福祉施設での無料寿司ボランティア「すし慰問」の活動をこの27年間(!)続けられ、昨年秋、叙勲を受けた方である。お店から本日叙勲記念のパーティがあるとも伺った。川上さん、叙勲、誠におめでとうございます。感謝。

改めて、美味しいものを普通に食べることができるという幸せとその大事さも改めて噛み締める。

 

ここまで午前中に書いた。僕はその後、亡くなられたAさんの写真をとりまとめ、CDに焼いて近くの写真屋さんにいく。15ページのアルバムにして、ご家族のもとに手渡しに行った。写真の多くが外出先で笑顔のAさんの姿だった。ダリヤ園、紅葉、外食、展覧会。金峰山の水場。等々、外出なんてできるとは思っていなかったのに、こんなにうれしそうに、、ととても喜んでいただいた。ささやかながら、少しでもお役に立てればいいと思った。

夕方、パル前に久々に立ち、久々に街頭演説。週末の一日はあっという間に過ぎていく 。

 



「押しつけ憲法論」こそ思考停止。9条発案は当時の幣原総理。


昨晩の報道ステーション、憲法特集はとても腑に落ちた。

●今の憲法は、「米国につくられたという押しつけ憲法論」は誤りであり、これこそ思考停止であるということ。

●押しつけ憲法論は主に戦時中に大臣を努めていた戦犯らによって主張されたものである。

特に9条の発案者は当時の総理だった。このことをマッカーサーの証言ももとに解説したものだった。

当時の総理の思いをたどっていくと、以下HPにあった。

憲法制定時の幣原総理が亡くなる寸前に戦争放棄条項制定の思いを語っていた。

http://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html より。

幣原総理
「僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

(他日独立した場合、敵が口実をつけて侵略したら)その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。」

 

まさにこれこそ、ガルトゥング博士と共鳴する積極的平和論ではないか。
こうした尊い志で生まれた9条。改めて認識し直すとともに、

僕も堅持したいと思う。そして、思考停止しているのはどっちだ!?とアベ政治に問うていきたい。



月山8合目へのシャトルバス社会実験レポート入手


庄内支庁観光課より、先般の記事の論拠となった月山8合目のシャトルバスの社会実験のレポートを入手しました。

以下のものです。分析はこれからですが、この提案のきっかけとなった月山の山小屋経営の主人に率直に伺うと「記事を読んで、信じられないという思いでいっぱいでした。これで打ち切りはあまりにも残念」とのこと。

ぜひ皆さんもじっくり読んでみてご感想、ご意見をお寄せくださいませ。

 

社会実験報告書 概要版

社会実験報告書



火力発電所の石炭灰 フライアッシュ、クリンカアッシュを使った土地造成、ちょっと待った!


市民の方から、ある地域の土地開発、造成の情報提供があって、この1ヶ月ほど、火力発電所からでる石炭灰からつくられるクリンカアッシュ、フライアッシュでの土地造成の事を調べていました。そして、ある事業者に対して、質問し回答を頂く中で、これまで私がスウェーデンなどで学んできた「サステナビリティの原則」「予防原則」に立ち、以下の提言を差し上げました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

●●●様

メールで大変失礼をいたします。

先般は、ご回答を頂き感謝申しあげます。空間放射線量について県環境課が調査した結果のご報告でありました。先般の私の指摘がこの放射線量問題の記事であったことから、放射線についての調査をされ、その結果を論拠に「クリンカアッシュを使用した造成工事を行うことに問題はない」とご判断されたようでありますが、私も諸々調査をしていく内に、更なる石炭灰の問題を諸々把握するに至りました。

 詳細案件については諸々ありますが、大筋の結論として、石炭灰には様々な重金属が含まれていること。そして処理した石炭灰リサイクル再生採石は、将来的に完全に無害といえるのか。つまり今後将来にわたり地下水や土壌汚染の懸念材料としての重金属の溶出が将来的に全くないと断言できるのか。甚だ疑問と言わざるを得ません。環境基準は問題が発生、発覚する度に人間の都合で変わるものでもあるからです。
 私は、市議、県議としてスウェーデンのサスティナブル社会を環境NGOナチュラルステップやスウェーデンエコ自治体議員等のネットワークで学んできました。そのサステナビリティの原則は、1.地殻から掘り出した物質の濃度が増え続けない(拡散させない)、2.人間が作り出す物質の濃度が増え続けない、3.自然が物理的に劣化しない という3つの環境におけるシステム条件と1つの人間の基本的なニーズを妨げないという社会条件。そして予防原則であります。

 こうしたサスティナビリティの観点から申せば、この地域の開発には将来的に様々な懸念要素が思料される石炭灰リサイクル再生採石による造成はおこなうべきではないと考えます。代替できるものが全くなければ別ですが、わざわざ懸念材料になる可能性のあるものは、お避けになったほうがよろしいのではないかと思います。開発される皆様のご判断として、ぜひ未来志向の予防原則を踏まえた「持続可能な開発」の判断基準をお持ち下さることを切に願うものであります。

 以上 ご提言申しあげます。私が懸念しているフライアッシュ、クリンカアッシュの土壌汚染の問題について、反論等ございましたらぜひともお伺いできれば幸いです。今後ともどうぞよろしくお願い申しあげます。

 

2016/02/18  草島進一

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この間、土壌汚染や地下水汚染の問題にお詳しい、元大阪市立大学教授 元日本環境学会会長 畑明郎先生から情報提供と貴重なアドバイスを頂きました。石炭灰やスラグというそもそも産廃処分しなければならない物質のリサイクル材を生成し、それを開発の際の土地造成への活用が進められているようですが、実態は問題が相当あるようです。読者の皆様と共有したいと存じます。

ーーーーーーーー

以下、畑明郎先生より。

クリンカアッシュ(石炭灰)フライアッシュについて

石炭灰の主灰だと思い、「鉛やフッ素が含まれ、アルカリ水が出る可能性がある」と回答しています。フライアッシュ(飛灰)なら添付の拙著にあるように、ヒ素、アンチモン、鉛、亜鉛、銅などの重金属が含まれており、主灰よりも危険であり、セメントと混ぜれば、より強いアルカリ水が出ます。

 したがって、宅地造成には使わない方が良いと思います。

ーーーーーーーーーー

添付の2016.1.22毎日新聞にコメントしているように、アルカリ水溶出は、植物や人の皮膚に悪影響があります。鉄鋼スラグの場合も、フッ素や六価クロムが検出され、石炭灰(主灰)もフッ素や鉛が検出されています。また、2016.2.23京都新聞にあるように、スラグと同様に地盤が軟弱になる場合もあります。

20160122毎日新聞:我々の土地実験台か、地盤不安定化の恐れ

 

20160122毎日新聞:スラグ24万トン無断埋設

20150930毎日新聞:行政は環境守る気概を、鉄鋼スラグ有害物質問題
20150912毎日新聞:有害スラグ問題で強制捜査 
20150930毎日新聞:行政は環境守る気概を、鉄鋼スラグ有害物質問題

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また、以下の事も大変興味深いです畑明郎著『土壌・地下水汚染』 IMG_20160216_0014 IMG_20160216_0013

この中で畑先生は、石炭灰の中の重金属の問題について述べておられます。水銀などの放出については特に問題です。画像をクリックすると拡大しますのでどうぞじっくりとご覧下さい。

 

もう一つ、大変貴重な資料として、以下があります。

こうした石炭灰などをリサイクルしてつくる材について、そこに含まれている重金属の量や、特に溶出量といって、そのリサイクル品をさまざまな溶液につけたりして、含まれている重金属が溶け出すかどうかをみる溶出試験というのがあるそうですが、畑先生いわく

「日本の溶出試験は、外国と比べて次の問題があります。

 中性の水で土壌を6時間振とう(シェイク)するだけであり、酸性雨などによる酸性水よりも低くなります。

 実際の野外環境に長期間置かれた場合は、重金属が多く溶出してくるので、溶出試験をクリアしても安全と言えません。」

とのこと。とすれば、予防原則にたって、回避することが賢明ということになります。

アルカリ水の溶出が懸念されるということであれば、子ども達が土に触れるようなグラウンド造成とか、農地の近くの利活用はまずは避けるべきと考えます。いくら水はけがいいとしても。

また、以下、アースポリシー研究所のレスターブラウン博士が指摘しているように火力発電所由来の石炭灰の問題は、世界で深刻さを増しているようです。石炭火力発電は地球温暖化の問題と枯渇性資源への依存、重金属などの汚染物質の拡散という問題をはらんでおり、それ故、脱原発とともに脱化石して、再生可能エネルギーへシフトすることが求められる社会になっているということだと思います。

http://www.es-inc.jp/library/mailnews/2010/libnews_id002465.html

 

溶出試験海外比較

 

出典 土壌、地下水汚染 畑明郎

   拡大する土壌・地下水汚染 畑明朗

 

皆様のご意見お待ちしております。草島進一

 



福祉車両の事故多発。デイライト運動で交通安全を


デイライト運動てご存知ですか?

自動車を運転するとき、昼間にライトアップして走りましょうということ。

実は県議会でも文教公安委員会や交通安全関連の会議で提言をしていたことでもありました。結構各県の事例も調査して私のスウェーデンの体験も交えて提言をしたのですが反応はイマイチでした。

今、うちの施設でもはたらきかけ、実践を始めているところです。僕自身は以前からデイライトやっています。「パッシング」もされるし、たまーに消し忘れてバッテリーもあがったりしてますが。

昼間にライトアップすると視認性が高まり、もらい事故の軽減になるということ。そして自分自身の意識付けにもなるということなど、諸々効用はあるようです。実際に運送会社などで先駆的に取り組んで事故軽減に役に立っているということも聞いていました。

デイライトでびっくりしたのは、スウェーデンに行ったときの事です。なんと昼間、走っている全部の車がライトアップしていたのです。大通りも小道も、小型車両も大型車両も全部です。「すばらしい運動ですね。全部ライトアップしているのですね」とスウェーデンの知人に言ったら 「え、いや、実はスウェーデンの車両にはライトを消すスイッチがないのです。エンジンがかかっている間はいつも点灯しているのです」とお話いただき、更にびっくりしました。「へえ」百回でした。

カリフォルニアでNPOインターン していたときも、あのカリフォルニアの真夏の炎天下の中でデイライトで走っている車が結構ありました。「レンタカーや、新車とか運転に自信ないとか、ぶつけられたくないと思う人は結構デイライトだね。僕も君らをのせているからデイライトだよ」とお世話になっていたスタッフが教えてくれました。

最近アウディなど外国車や国産車でもLEDのランプが昼間ついている車が増えました。これもその一連のようです。

で、今日、ちょうど黒猫ヤマトさんが配達に来たのでちょっと伺ってみました。「デイライト運動、すばらしいですね。どんな成果があがっているんですか」「へえ?」「え」「点灯する運動やってますよね」「あ、デイライトですか。これは運動ではなくてルールなんです」「巻き込まれ事故などの軽減などいろいろメリットがあります」と返され、「へえ」と感心しました。もう「ルール」なのか。へえー。

最近、介護の送迎車の痛ましい事故が増えているようです。ヤマトさんにならって、「ルール」にするぐらいとりくんでもいいなと感じました。

まずは、うちの施設からやっていきますか。

 



月山8号目までのシャトルバスの社会実験の打ち切り?ーまだまだ検討が必要だ。


24日付けの荘内日報の記事IMG_6870

この月山8合目までのシャトルバスは、私が県議会にはいって、年に2度ある庄内支庁の幹部との議員協議会の2011年2回目で取り上げ、提言を続けてきたものだ。佐藤前支庁長の下で問題意識が高まり、先例の調査がおこなわれ、25年度から実際にシャトルバスを運行して利用者の反応などを確認する社会実験がおこなわれてきた。社会実験の際には、一昨年も、そして昨年も早朝から月山高原牧場付近の現場に立ち会い、状況を観察、利用者の反応を確かめてきた。そもそもの提案は、8合目までの道路で7月終わりの繁忙期、大型バスの脱輪事故で全く身動きできなくなりたくさんの観光客に影響を与えた事があり、その要望を羽黒の方々や観光関係者から伺っていたことと、自分自身も上高地のシャトルバスを利用したことがあり、多くの山岳道路では当たり前のようになっている実感があった事がある。

実際の利用者の声がこの記事ではわかりにくいが、僕が伺った印象では、「高齢になってからこの道はすごく不安だった、シャトルバスがでていて安心した」「他では当たり前になっている」など、女性、高齢者、そして初めて訪れる方、外国人ドライバーなどにはすこぶる好評といった感があった。また、月山高原牧場ハーモニーパークを基点としてシャトルバスを動かしたわけだが、ジンギスカンハウスなどの利用も含め、パークでのイベントへの参加などを促せる効果があるのではないかと感じた。その社会実験がたった2年で打ち切られるとはあまりにも残念だ。費用面のネックといっても支庁試算の片道1500円弱というのにはまだまだ複案があるはずだ。この記事だけでは詳細はわからないけれど、前支庁長がやり始めたときの熱を失っているような気がしている。出羽三山観光の要である月山の観光政策の一つ。更に社会実験をおこなって検討をし続ける事が必要なのではないだろうか。あきらめずに運動を続けていきたい。



本日51歳になりました。介護の現場で半年。ユマニチュードと人間の力。 


FBを通じて、本当に数多くの誕生日おめでとうメッセージをありがとうございます。なんとも照れますが本当に嬉しいです。

 

まだまだ修行が足りない、まだまだ、まだまだ、と思いつつ、これまで歩んできてあっという間に51歳。県議落選後、これも修行と研修を受けて介護施設の現場にはいって半年。今しがた本日の仕事を終えたところです。

 

 今日、利用者のお一人のご家族から「今日も行く気がしないと本人言っています。家族がはたらきかけても全く駄目。怒ってしまうばかり」との連絡が朝入り「でも声をかけてみましょう」とお宅を尋ねました。さあ、と最近お手本にしているユマニチュードのイブジネストを意識しつつ遠くから視線を交わしてご本人の目の前へ。「皆さんAさんが歌う「白いブランコ」をほんとに楽しみにしているんですよ。今日は天気もいいし、いきましょうよ。と手に触れながらお願いしてみました。しばし困惑気味でしたがなんだか笑顔になって、腰をあげてくれました。
 「最近お家では何してますか」と何気なくご家族に伺うと「絵を描いています」とご家族、「え、どんな?」「これです。」

 

「え!?」スケッチブックに描かれていた絵の表現力とタッチの美しい絵にびっくり。


 その後、笑顔で送迎車に乗ってくださったAさんをお連れし、施設に到着してからスケッチブックと鉛筆をお渡ししてみました。そこですらすらと描いてしまったのがこの絵だったのです。

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その絵を一目見た施設内のスタッフや利用者みんなで「凄い!すばらしいね!Aさん」の大合唱。92歳のAさんは涼しい顔でもう一枚の絵を書き始め昼食までの時間に完成させました。さらさらとただ、スケッチブックの白い紙をみつめつつ、全くの空想で。どうぞご覧下さい。なかなかの絵心ですよね。Aさんは戦時中通信兵で活躍した後、シベリア抑留からの帰還のお一人。「終戦から4年も帰れなった」というのが口癖の方です。 この半年、こんな力をお持ちであることに気がつかず、塗り絵なんかをさせてしまっていた事に大反省。でも、我々の利用者の方々への向き合い方、接し方によっては、普段は隠れているかもしれないそれぞれの方々が持っている素晴らしい能力を発揮していただける現場である事を再確認させられた一日でした。

以前クローズアップ現代のユマニチュード特集で、イブジネストさんが最後にこう語っていた事を思い出しました。
「本当に、光を与えてくれるような人たちなんです。私たちが何か施せば、それの100倍返ってきます。」

 

 

 
 
草島 進一さんの写真


立憲主義が解らないアベ政治ムラ


立憲主義とは?

安保法制、集団的自衛権の問題でさかんに問われているのだけれど、一体なんなのか、

今や総理大臣自らが妙な解釈をしてどんどんこの立憲主義から逸脱をしているし、更に

憲法改正をとにかくやるのだと、主張し続けている。国会審議では「弱々しいだの自分たちは強いだのという言葉を使って、野党を牽制しながら、正論ぶって奇妙な主張を貫いているのだ。

先週の民主党の大串議員の追求でアベ総理の危険な憲法感が明らかになった。

安倍総理はこれまで現行憲法について「GHQに押し付けられた」
「日本人の精神に悪い影響を及ぼしている」
「憲法前文はアメリカへの詫び証文」
(立憲主義に対しては、古色蒼然」などと発言をしている。以下、大串議員のパネルにひとまとめてしてあった。

この中で、憲法について総理は、

左翼傾向の強いGHQ内部の軍人たちが短期間で書き上げ、それを日本に押しつけたものである

と言及していた事を示し、今も同様の考えかを大串議員は尋ねた。

​総理は

安倍総理「これは、日本が占領下にある中において、まさに当時は連合国のGHQ、司令部がある中において、日本国といえども、いわば当時の政府といえどもこの意向には逆らえないわけでございます。その中においてこの憲法がつくられたのは事実であろう、こう思うわけでございます。

 そして、極めて短い期間につくられたのも事実でございます。その事実を事実として申し上げた。こういう事実を事実として申し上げることができないという言論空間をつくること自体が私は間違っているのではないか、このように思います」

安倍総理「端的にお答えをいたします。いわば、これは幣原喜重郎内閣でございましたが、ここで憲法をつくるということになった。そこで、松本烝治氏が担当の大臣になって、いわゆる甲案、乙案というものをつくったんです。それを、先ほど新聞名が挙がりましたが、毎日新聞がスクープしたんですね。西山柳造という記者がこれをスクープしたわけでございます。

 そして、それを見て、GHQは、これは絶対に受け入れられないという中において、ホイットニー当時の准将がケーディス氏に、民政局の次長に指示をして、約8日間で25人の委員でつくったのは事実だろうと思います。そして、それが草案になったところでございます。

 そこで、私が大切にしているところは、やはり私たちの憲法なんだから、この中において、もちろん、平和主義、国民主権などなどありますよ、基本的人権、そうしたものは守っていかなければいけませんし、これは貫いていく必要があるんだろうと思います。

 そして、それは私も今まで評価もしてきているわけでございます。ただ、形成過程がそうであったという事実は私たちはしっかりと直視をしなければいけない。歴史を直視しろというのはそういうことなんですよ。

などと答えている。

安倍総理の主張はあたかも毎日のスクープがけしからん。そしてGHQがつくったのがけしからん。といっているようだけれど、ゴマかされてはならない。ここでけしからんのは、戦争で人権を奪い、多くの犠牲を強いられながらも、新たな憲法案として、主権在民もはいっていない、明治憲法とほぼ同様のものしかまとめられなかった、当時の政府の憲法のとりまとめ役、松本烝治氏らのほうだろう。むしろ、鈴木安蔵先生ら、7名の憲法の民間研究者からなる憲法研究会が1945年12月26日に「憲法草案要綱」をつくっており、当時のGHQはそれを大いに評価し、戦争放棄、国民主権、人権を踏まえてその理想を掲げて草案をつくりあげている。その後、国会で森戸辰男氏が「生存権」を提言しそれが追加されてできたのが日本国憲法。

だから何も「短い間にGHQにつくられた」からって、駄目な憲法ではない。ある意味、普遍的な人権や自由や平和について定められているものなのだ。軍事下治安維持法で圧力をかけられていた日本国民は本当の事を言う事が怖くてできないといった社会だった。そうした社会を払拭し、国民全員に自由と人権をもたらす重要性からみてば、実に優れた文章であることがわかるはずだし、松本案でなくて良かったと心から思えるはずなのだ。

あたらしい憲法の下、戦争を絶対に二度と引き起こさない、人権が守られた真っ当な国づくりを国民主権で立ち上げる。ここに立憲民主義の歴史がはじまっているのだ。

この動きを左翼傾向の強いGHQ内部の軍人たちが短期間で書き上げ、それを日本に押しつけたものである 

とはどんな解釈なのか。これは一国の総理大臣として恥ずかしい。

それと、

立憲主義についての解釈があまりにおかしすぎる。

国の権力を憲法によって縛るという立憲主義について、「専制主義的な王政があった時代のもの」などとしている。それで「古色蒼然」との決めつけが行われている。ここが根本的な間違いである事がなぜ解らないのだろう。民主主義で議会も存在したドイツで、ナチスヒトラーが犯したユダヤ人大量虐殺の実態はどうか。そして世界大戦に突入した日本の戦前、あの時も国会があり王政の時代などではなかった。しかしドイツでも日本でも権力者達は平気で国民の基本的な人権や自由を奪い、大量虐殺や、特攻などで国民の命さえも奪うことを平気でおこなっていた。

民主主義で多数決で物事を決める時代にあっても、国民の基本的人権や、平和、自由を乱す法律はつくれないし行使できないという縛りをかけているのが近代、現代立憲民主主義国家の当たり前の姿なのだ。

真に、国民や市民を理解しない総理大臣だから、立憲主義がわからないのだろう。

立憲主義は、国民が憲法によって権力者たちを縛るもの ということは普遍的な原理原則だ。

自民党草案は、その縛りを権力者たち側から解いて、逆に国民に義務を多く課して権力者たちが国民を縛るというアベこべのものになっている。

立憲主義も全く理解せず、むしろ曲解している輩が暴走しているにすぎないのだ。

主権者たる国民である私達は、私たちの自由や権利を守るためにつくられた憲法を乗り越えて政治を行おうとしている権力者たちを厳しく糾弾し、それを阻止しなくてはならない。

70年前の第二次世界大戦では、310万人もの国民が犠牲になった。それを教訓に憲法を定め 世界に二度と戦争を引き起こさないことを誓い、自由と人権を国民全員に行き渡らせようとした。その根本精神を絶対に忘れてはならないのだと思う。