カテゴリー: 日記
朝日村田麦俣のひなまつり
以前ここを訪れたとき、4月3日のおひなまつりには、ここの村の子供たちが各家のおひな様を訪ねて回り、家の人はお菓子やごちそうを渡すということを伺っていた。集落は23件。今日は雨雪まじりだったが、9名の子供たちが一軒一軒の家をまわり、おひなさまの前で二礼二拍手一拝。すると家の方が用意していたお菓子を一人一人にわたして、「あっら○○ちゃん、おっきぐなったのー」「スポ小どげだや」とはじまるのだ。集落にあるおひな様も新しいのから、歴史を感じるもの。ときに土人形があったり。となかなか立派なものだ。それに写真の巨大ひしもち発見。各家でお手製の草餅ととち餅でつくられたひしもちだ。となりにはカニが並んでいたり季節のお祝いのハレのご馳走。写真を撮っていた僕もお菓子のお裾分けをいただきました。
ノーベル賞の下村博士が加茂水族館 来鶴。
4月2日、オワンクラゲを通じて鶴岡市立加茂水族館と交流がある米ボストン大名誉教授の下村脩さん(81)が2日、同館を訪れ、一日館長を務めた。
村上館長の夢まさに実現といった感じ。本当に良かったですね。
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以下、朝日新聞より
オワンクラゲの「緑色蛍光たんぱく質」を発見し、ノーベル化学賞を受けた下村脩博士(81)と明美夫人(74)が2日、山形県鶴岡市の加茂水族館を訪れ、「一日館長」を務めた。
村上龍男館長(70)の案内で「世界一」を誇るクラゲの展示を見た博士は「大したもの。繁殖成功など、すごい努力を感じた」。ノーベル賞以来、入館者5万4千人分のざっと5400万円が「下村効果」の増収とか。村上館長は「こんなうれしいことはない」と、博士の手を何度も握っていた。
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除雪の仕事。
今朝は母校のトイレ掃除からスタート。日本を美しく! これは? 除雪車(除雪用ホイールローダー)のブレードのフィン。とある集落、訪れた除雪業者の方から見せていただいた。市内では使えないが、中山間地では威力を発揮するのだとか。降雪の時は3台の大中小のブルでフル稼働し、午前2時ぐらいから午前7時には必ず完了させる。そうした仕事が続くのだとのこと。こうした除雪機械は購入するのに1600万円。減価償却5年とか。使えるのは冬期のみ。最近は同業者の廃業の話も結構聞いているとか。どんな仕事もなかなか大変だ。雪国の鶴岡では、なくてはならない仕事。ご苦労様です。
鶴岡市議会 3月議会 討論結果
鶴岡市議会 3月議会討論をHPから傍聴。
争点である病院の給食の問題、慶応大先端関連バイオ研究支援センター拡張などを含む議案39件。討論終結後 自民系、連合系、公明系は賛成。共産党議員4名のみの反対で39件の議案通過。
バイオ研究関連などは、総括、一般質問の質疑などを聞いても、当局から十分な説明が果たされたとはとても思えない。また、病院の給食民営化の問題も、あれで納得のいくものだったのか。疑問が残る。
鶴岡市議会3月議会
本日から鶴岡市議会3月議会
市長の説明、総括質問をHP上から傍聴す。
22年度予算で気になる問題要点は大きく2つ。
●荘内病院の給食の民営化
●慶応大学 先端生命科学研究所関連施設の拡張事業
この市長説明は、どうも解せなかった。中身については、更に一般質問などで掘り下げる議員もいるだろうが、注目していきたいし、私も調査していく。
またもお手紙を頂きました。
つじ立ち。天気がよくて気持ちいい。先週に引き続き、またもお手紙をいただきました。うれしいです。ありがとうございます。
感謝。
八文字屋前街頭演説。ダムの事、事業仕分け、市政の事など。演説中、「がんばれよ」と声をかけていただいた方から以下のようなメモを頂いた。また、お一人の方から、缶コーヒーの差し入れをいただく。感謝。
神戸 1.17
今年の1月17日、僕は神戸にはいけませんでした。しかし、「神戸」から15年、6434名の犠牲者の命、そしてあの現場でみんなと0から1をつくる、「ボランティア元年」という言葉を生み出したあの時の行動。私のまさに原点に回帰させられる、そんな日であり、当時、この1週間の「行動」によって人生が大きく変わった、そんな日々のことが思い出されます。150日、テントに寝泊まりしながら、そして、その後も1年半は公園の仮設小屋に住まいしながら、結局3年間、みんなと活動した石屋川公園、御影公会堂。そして、日々、数百人の人たちとがっちりと握手をしながら次々とプロジェクトをつくりあげていった日々。あのときのエネルギーの結集から頂いた僕の第二の人生です。改めて、犠牲になった6千余名の命のご冥福をお祈りするとともに、あのときに一緒に動いて、笑顔をつくり社会を確実に変えていった。お一人お一人の皆さんに、感謝します。ありがとうございます。そしてこれからもよろしくお願いします。
ずっと懸案になっていた、当時のこと、改めてまとめて参ります。
http://www.youtube.com/watch?v=ZPdIlxA9Qok
ハイチの地震。
犠牲者の数が10万人ともそれ以上とも発表されているハイチ。なんとかしなければ。
黒田さん 阪神淡路大震災から15年。
阪神淡路大震災から15年。今日のNHKの視点論点では、障がい者、高齢者ネットワークの黒田さんが発表されていた。当時、避難所で、まず最初に元気な方々が体育館の真ん中を陣取ってしまい、高齢者や障害者の方々が入り口近くなどで寒さに凍える。なんてことがあった。災害の時にいかに弱者の視点にたって、しくみが構築できるか。黒田さんたちが、孤独死の防止として、ふれあいテントをつくって、交流の場をつくった。そのテントを訪れたときの事を思い出す。僕らは、緊急通報の装置を一人暮らしのお年寄りに手渡して、寂しいときやお話をしたいとき、もちろん緊急の時、押してもらい、それにボランティアが二四時間体制で対応する、ベルボックス事業を展開していた。地域のコミュニティのつながりがあれば、お年寄りたちは、孤独死することはなかった。
これは、あの災害で学んだ、大きなことだ。それを教訓に、中越ではコミュニティを大事にして隣近所できるだけ離ればなれにならないように仮設住宅をつくった。黒田さんの「ふれあいテント」に学び、神戸でも次々とふれあいセンターとして集会所が設けられ、今や、仮設住宅をつくるときには、そうした集会所をつくることは常識になっている。
僕は、阪神では、被災地の中と外との情報格差に悩んだ。何かが必要と思ってマスコミに訴えて報道してもらう。それを観た人たちが食料、衣類と送ってくださる。被災地のニーズはどんどん素早く変わるので、それらが送られてきたときには、ニーズは次に変わっているということが起きていた。
当時 僕はではじめのインターネットのノウハウを大阪大学の学習会まで足を運んで学びにいった。そして、97年の重油災害では、インターネットを活用して、当初は二〇分ごとに刻々と変化する現場のニーズを伝えていった。僕らはひとつひとつ現場で学び、学んだことを次の現場で実践してきた。
重油災害ではじめて、社会福祉協議会、JC、NPOの連携ができ、協働のボランティアセンターが立ち上がった。その後、新潟水害、中越地震、能登沖地震、中越沖地震、など、次々とボランティアの現場では センターが立ち上がり運営がおこなわれてきた。僕ら、「元気村」の活動としては、中越では避難所でのプライバシー対策、それから車中泊で起きてしまったエコノミークラス症候群による犠牲者をいかに防ぐかということを目標に、「テントプロジェクト」を立ち上げ、七〇〇張りのテントを被災者の方々に提供した。
中越沖地震では、真夏の避難所でいかに快適に過ごしていたくかを考え、キャンプ用ベッドを提供するプロジェクトをメーカーさんとともにおこなった。体育館の床 にぺったりと布団をしくよりも、ずっと快適だといことを実験しつつ、実際に喜んで頂いた。 中越では、ボランティア本部のすぐ近くにお住まいで被災当時大変苦労をされたという全盲の方とじっくりお話をした機会を得た。改めて 謙虚に、災害時に最も弱い人たちの事を考えて活動せねばならないと思ったものだ。
僕の今の活動のまちがいなく原点となっている阪神淡路大震災から15年。「神戸」が今、本当に活かせているか、また、改めて問われる。