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憲法と法律との違いって? 立憲主義ってこういうこと?


憲法と「立憲主義」。

安倍総理は、在任中の憲法改正を考えていると3月3日、明らかにしました。

「憲法」。改めてちょっと考えてみましょう。

そもそも憲法って何でしょう? 法律と憲法ってどう違うのでしょう?

私自身も憲法については、中学、高校の「政治・経済」や大学一般教養などで学んできているはずなのですが、なんだか「法律の親分」のようにしかならってこなったのようにも思えます。皆さんはいかがでしょうか?

私は特にこの数年、伊藤真先生や、小林節先生の講演を聴き、著書を読む中で改めて、憲法と法律が全く別のものだと鮮明に解りました。

そこで、伊藤真先生の講演などを参考に、この絵を改めてつくってみました。

憲法の構造 のコピーまずは、この図です。

現在の日本国憲法は、先の大戦の反省を元に「二度と戦争を引き起こさない事と、国民個人の自由や人権を守るために定められました。

現在、私達国民は、法律を守る義務があります。しかしながら、基本的には憲法を守る義務はありません。それは、そもそも憲法は、国民が、国家権力が暴走しないように定めたルールブックだからです。この図で、法律は上から下のベクトルで、権力が国民を制限する。しかし、憲法は下から上のベクトルで、国民が、憲法によって国家権力を縛る。しかもその憲法はあらゆる法の最高法規として定められています。

憲法を守らなくてはならないのは、国家の権力をもつ政治家や公務員、天皇であり、(99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。) 全ての法律は最高法規である憲法を乗り越えてつくることができないとされています。

この、「全ての政治が憲法の下でおこなわれる」という事が「立憲主義」ということです。

しかし、今、「改憲」論を振りかざす安倍自民党が掲げている自民党憲法草案は下の絵の右側の構図です。

憲法と自民草案イラスト

国民が国家権力を縛る道具が憲法であるはずなのに、自民党草案では国民に様々な義務を押しつけようとしている。つまり、憲法を国民を更に縛る道具にしようとしているのです。

憲法学者の小林節先生はおっしゃっています。

この改正案の最も大きな不安は、「立憲主義が後退するのではないか」ということです。

「国家が国民に義務を押し付ける」ことは、日本国憲法の根本理念に反します。自民党は、憲法が何かをわかっていないのです。たとえば、酔っ払い運転の取り締まりを厳しくしたり、借りたお金を踏み倒す人を少なくしたりしようと思えば、国は刑法や民法を改正します。それと同じことを、憲法という根本法を改正してやろうとしているわけです。

 しかし、いわゆる「六法」と呼ばれているなかで、憲法とその他の法律(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法)は、性格が全く違うもの。憲法は国民を規制するものではなく、権力者の横暴を規制する法規範なのです。しかし、日本人の多くは、憲法を単に民法や刑法のような法律の「親玉」くらいにしか思っていない。そこが問題なのです。」

今、私達は現在の日本国憲法の下で、政治を行う立憲民主主義国家、日本に暮らしています。立憲主義が破壊されれば専制主義、独裁国家への道となります。

一昨年の7月1日の集団的自衛権の行使容認を閣議決定で決めた憲法違反は、憲法で縛られる当人たちが解釈を変えた悪質な憲法違反

昨年9月19日の「安保法制=戦争法」の強行採決は、法律が憲法9条を超える憲法違反

国会議員の4分の1が求めても国会を開かない。これも憲法違反。

この3月で報道ステーション、ニュース23、クローズアップ現代のメインキャスターの方々が、続々とお辞めになる。そして高市大臣のまるで戦前の言論統制のような法解釈の発言については、海外メディアでも取り上げられているようですが、あるまじき言論封じであり、これも憲法違反と憲法学者から指摘されています。(立憲デモクラシーの見解を後に添付します。

憲法違反だらけの安倍政治。今の姿勢を見れば、改憲の目的が見えてくるようです。

 


 

 

                       2016年3月2日

放送規制問題に関する見解

立憲デモクラシーの会

Ⅰ 放送法の4条1項は、国内放送の番組は、いくつかの原則に即して編集されるべきことを求めている。その中には、「政治的に公平であること」(同項2号)および「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」(同項4号。「論点の多角的解明義務」と呼ばれる)が含まれる。

 テレビ局を含む放送事業者にも、憲法21条の規定する表現の自由は保障される。表現活動への規制が全く許されないわけではないが、表現の自由が民主的政治過程の不可欠の要素であること等から、表現活動の規制は慎重になされるべきであるし、とりわけ表現の内容に基づく規制は、原則として認められないと考えられている。

 第一に、表現の内容に基づく規制を政府が行う場合、特定の立場からの表現(政治的言論や宗教的宣伝)を抑圧・促進するという、不当な動機を隠している蓋然(がいぜん)性が高く、第二に、表現活動の内容に基づく規制は、言論の自由な流通と競争の過程を歪曲(わいきょく)する効果を持つからである。

 放送法が定める政治的公平性と論点の多角的解明の要請は、明らかに表現の内容に基づく規制である。しかし、放送法上のこうした表現の内容に基づく規制は、日本国憲法の下でも、一貫して合憲であるとの前提の下に運用されてきた。そして、新聞・雑誌・図書といった紙媒体のメディア(プリント・メディアと呼ばれる)と異なり、放送については特殊な規制が認められるとの考え方は、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を含めて、多くの国々で採用されている。

 伝統的には、放送の二つの性格──放送の使用する周波数帯の稀少(きしょう)性と放送の特殊な社会的影響力(impact)──から、放送については特殊な規制が許されると考えられてきた。ただ、こうした伝統的な規制根拠論には、今日、さまざまな疑問が提起されている。第一に、技術の高度化にともなって放送メディアが増大するとともにきわめて多様化しており、すべての放送が同じように特殊な影響力を持つとも、インターネットをはじめとする他のメディアに比べて強い影響力を持つとも、言えなくなっている。また、テレビの総合編成のチャンネルに限っても、地上波衛星波を含めるとその数が総合編成の新聞の数に比べて稀少であるとは必ずしも言えない。

 さらに、そもそもの問題として、ある財が稀少であることは、その財を公的に配分しなければならないとか、使用法を公的に規制しなければならないことを必ずしも意味しない。市場で取引される財はすべて稀少であるし(だからこそ価格に基づいて取引される)、自他の身体や家財への損害をもたらさない限り、使用方法がとくに公的に規制されるわけでもない。

 こうした背景から、規制された放送と自由な新聞とを併存させることで、マスメディア全体が、社会に広く多様で豊かな情報を偏りなく提供する環境を整えるとの議論など、伝統的規制根拠に代わる新たな規制根拠を探る動きもあるが、稀少性と社会的影響力の点で他のメディアと区別が困難となった以上、放送固有の規制は撤廃し、表現の自由の基本原則に復帰すべきであるとの議論も有力である。放送規制の将来は、定まっているとは言い難い。

 

Ⅱ Ⅰで述べた議論は、日本に限らずリベラル・デモクラシーと言い得る国に一般的にあてはまる。これに加えて、国それぞれの特殊性もある。日本の特殊性は、放送法制の企画立案にあたる政府の官庁(総務省)が、同時に放送事業者に対する規制監督機関でもあるという点にある。アメリカやヨーロッパ諸国では、放送法制の企画・立案にあたるのは政府直属の官庁であるが、監督権限を行使するのは、政府から独立した立場にあり、政府の指揮命令を受けることなく独立して職権を行使する機関である。これは、放送メディアに対する規制権限の行使が特定の党派の利害に影響されないようにするための工夫である。

 そうした制度上の工夫がなされていない日本では、放送規制のうち、とりわけ番組内容にかかわる政治的公平性や論点の多角的解明義務について、果たして十全の法規範と考えてよいのか、という問題が議論されてきた。学界の通説は、放送事業者の自主規律の原則を定めるという色彩が極めて強いと考えざるを得ないというものである。

 放送法4条1項の条文は、そのままでは政治的公平性や論点の多角的解明という抽象的な要請を定めているにすぎず、具体的場面においてこの原則をどのように具体化すべきかは、ただちには判明しない。人によって、それこそ見解は多岐に分かれるであろう。それにもかかわらず、こうした抽象的原則を具体化した規定をあらかじめ設けることもなく、議会与党によって構成され連帯責任を負う内閣に属する総務大臣に指揮命令される形で放送内容への介入がなされるならば、放送事業者の表現活動が過度に萎縮することは免れないし、権限濫用(らんよう)のリスクも大きい。漠然とした放送法4条の文言のみを根拠として、政党政治からの独立性が担保されていない主務大臣が放送事業者に対して処分を行えば、適用上違憲との判断は免れがたいであろう。

 2016年2月8日の衆院予算委員会で、高市早苗総務大臣は、放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命ずる可能性に言及した。「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の反応もしないと約束するわけにいかない」と述べたと伝えられている。

 電波法76条は、条文上は放送法違反の場合に停波を命ずることができるようにも読めるが、憲法上の表現の自由の保障にかんがみるならば、放送法4条違反を停波の根拠として持ち出すことには躊躇(ちゅうちょ)があってしかるべきである。高市大臣は、政治的公平性に反する放送が繰り返された場合に限定することで、きわめて例外的な措置であることを示したつもりかも知れないが、公平性に反すると判断するのが政党政治家たる閣僚であるという深刻な問題は依然として残る。

 放送法自体、その1条2号で、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」を放送法の根本原則として掲げている。放送事業者の自律性の確保の重要性は、最高裁判所の先例も度々、これを強調してきた。このことも忘れてはならない。

 

Ⅲ さらに高市総務大臣は、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」を、政治的公平性に反する事例とした具体的に挙げたと伝えられている。国論が現に二分されている以上、一方のみの見解を報道し、他方の見解の存在を報道しないという選択は、実際上、想定不可能である。大臣が言わんとするのは、一方の見解のみを支持し、他方の見解を支持しないことが、政治的公平性に反するということであるとしか考えにくい。

 放送法4条が要求しているのは、党派政治の対立における公平性──不偏不党──であって、個々の政治的論点について、放送事業者が一定の立場を支持する報道をしてはならないということではない。論点の多角的解明義務に即して多様な立場を紹介した上で、特定の立場を放送事業者が支持することは、当然あり得る。これを否定することは、憲法21条違反である以前に、放送法の解釈として誤りを犯している。

 「国論を二分する政治課題」で一方の政治的見解のみを支持する内容を相当時間にわたって繰り返すことは、政治的公平性を求める放送法に違反すると高市大臣は主張するが、そこでの国論を二分する政治課題なるものが、違憲の疑いのきわめて強い法案を国会で可決・制定すべきか否かという論点であり、しかも、その違憲性が、日本国憲法の根幹にかかわる原理原則にかかわる場合はどうだろう。そこでも、単純・機械的に賛成論と反対論を紹介し、自分自身は何らの見解も示さないのが、報道機関たる放送事業者のあるべき態度であろうか。

 放送事業者のよって立つべき憲法自体が攻撃されているとき、放送事業者に対しても、憲法の敵と味方を単純・機械的に対等に扱うよう法的に強制すること、憲法の基本原理への攻撃をも、それを擁護する主張と対等・公平に扱うよう強制すべきだとの主張は、憲法の基本原理自体と齟齬(そご)を来す。

以上

 

 


月山8合目へのシャトルバス社会実験レポート入手


庄内支庁観光課より、先般の記事の論拠となった月山8合目のシャトルバスの社会実験のレポートを入手しました。

以下のものです。分析はこれからですが、この提案のきっかけとなった月山の山小屋経営の主人に率直に伺うと「記事を読んで、信じられないという思いでいっぱいでした。これで打ち切りはあまりにも残念」とのこと。

ぜひ皆さんもじっくり読んでみてご感想、ご意見をお寄せくださいませ。

 

社会実験報告書 概要版

社会実験報告書


月山8号目までのシャトルバスの社会実験の打ち切り?ーまだまだ検討が必要だ。


24日付けの荘内日報の記事IMG_6870

この月山8合目までのシャトルバスは、私が県議会にはいって、年に2度ある庄内支庁の幹部との議員協議会の2011年2回目で取り上げ、提言を続けてきたものだ。佐藤前支庁長の下で問題意識が高まり、先例の調査がおこなわれ、25年度から実際にシャトルバスを運行して利用者の反応などを確認する社会実験がおこなわれてきた。社会実験の際には、一昨年も、そして昨年も早朝から月山高原牧場付近の現場に立ち会い、状況を観察、利用者の反応を確かめてきた。そもそもの提案は、8合目までの道路で7月終わりの繁忙期、大型バスの脱輪事故で全く身動きできなくなりたくさんの観光客に影響を与えた事があり、その要望を羽黒の方々や観光関係者から伺っていたことと、自分自身も上高地のシャトルバスを利用したことがあり、多くの山岳道路では当たり前のようになっている実感があった事がある。

実際の利用者の声がこの記事ではわかりにくいが、僕が伺った印象では、「高齢になってからこの道はすごく不安だった、シャトルバスがでていて安心した」「他では当たり前になっている」など、女性、高齢者、そして初めて訪れる方、外国人ドライバーなどにはすこぶる好評といった感があった。また、月山高原牧場ハーモニーパークを基点としてシャトルバスを動かしたわけだが、ジンギスカンハウスなどの利用も含め、パークでのイベントへの参加などを促せる効果があるのではないかと感じた。その社会実験がたった2年で打ち切られるとはあまりにも残念だ。費用面のネックといっても支庁試算の片道1500円弱というのにはまだまだ複案があるはずだ。この記事だけでは詳細はわからないけれど、前支庁長がやり始めたときの熱を失っているような気がしている。出羽三山観光の要である月山の観光政策の一つ。更に社会実験をおこなって検討をし続ける事が必要なのではないだろうか。あきらめずに運動を続けていきたい。


本日51歳になりました。介護の現場で半年。ユマニチュードと人間の力。 


FBを通じて、本当に数多くの誕生日おめでとうメッセージをありがとうございます。なんとも照れますが本当に嬉しいです。

 

まだまだ修行が足りない、まだまだ、まだまだ、と思いつつ、これまで歩んできてあっという間に51歳。県議落選後、これも修行と研修を受けて介護施設の現場にはいって半年。今しがた本日の仕事を終えたところです。

 

 今日、利用者のお一人のご家族から「今日も行く気がしないと本人言っています。家族がはたらきかけても全く駄目。怒ってしまうばかり」との連絡が朝入り「でも声をかけてみましょう」とお宅を尋ねました。さあ、と最近お手本にしているユマニチュードのイブジネストを意識しつつ遠くから視線を交わしてご本人の目の前へ。「皆さんAさんが歌う「白いブランコ」をほんとに楽しみにしているんですよ。今日は天気もいいし、いきましょうよ。と手に触れながらお願いしてみました。しばし困惑気味でしたがなんだか笑顔になって、腰をあげてくれました。
 「最近お家では何してますか」と何気なくご家族に伺うと「絵を描いています」とご家族、「え、どんな?」「これです。」

 

「え!?」スケッチブックに描かれていた絵の表現力とタッチの美しい絵にびっくり。


 その後、笑顔で送迎車に乗ってくださったAさんをお連れし、施設に到着してからスケッチブックと鉛筆をお渡ししてみました。そこですらすらと描いてしまったのがこの絵だったのです。

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その絵を一目見た施設内のスタッフや利用者みんなで「凄い!すばらしいね!Aさん」の大合唱。92歳のAさんは涼しい顔でもう一枚の絵を書き始め昼食までの時間に完成させました。さらさらとただ、スケッチブックの白い紙をみつめつつ、全くの空想で。どうぞご覧下さい。なかなかの絵心ですよね。Aさんは戦時中通信兵で活躍した後、シベリア抑留からの帰還のお一人。「終戦から4年も帰れなった」というのが口癖の方です。 この半年、こんな力をお持ちであることに気がつかず、塗り絵なんかをさせてしまっていた事に大反省。でも、我々の利用者の方々への向き合い方、接し方によっては、普段は隠れているかもしれないそれぞれの方々が持っている素晴らしい能力を発揮していただける現場である事を再確認させられた一日でした。

以前クローズアップ現代のユマニチュード特集で、イブジネストさんが最後にこう語っていた事を思い出しました。
「本当に、光を与えてくれるような人たちなんです。私たちが何か施せば、それの100倍返ってきます。」

 

 

 
 
草島 進一さんの写真

立憲主義が解らないアベ政治ムラ


立憲主義とは?

安保法制、集団的自衛権の問題でさかんに問われているのだけれど、一体なんなのか、

今や総理大臣自らが妙な解釈をしてどんどんこの立憲主義から逸脱をしているし、更に

憲法改正をとにかくやるのだと、主張し続けている。国会審議では「弱々しいだの自分たちは強いだのという言葉を使って、野党を牽制しながら、正論ぶって奇妙な主張を貫いているのだ。

先週の民主党の大串議員の追求でアベ総理の危険な憲法感が明らかになった。

安倍総理はこれまで現行憲法について「GHQに押し付けられた」
「日本人の精神に悪い影響を及ぼしている」
「憲法前文はアメリカへの詫び証文」
(立憲主義に対しては、古色蒼然」などと発言をしている。以下、大串議員のパネルにひとまとめてしてあった。

この中で、憲法について総理は、

左翼傾向の強いGHQ内部の軍人たちが短期間で書き上げ、それを日本に押しつけたものである

と言及していた事を示し、今も同様の考えかを大串議員は尋ねた。

​総理は

安倍総理「これは、日本が占領下にある中において、まさに当時は連合国のGHQ、司令部がある中において、日本国といえども、いわば当時の政府といえどもこの意向には逆らえないわけでございます。その中においてこの憲法がつくられたのは事実であろう、こう思うわけでございます。

 そして、極めて短い期間につくられたのも事実でございます。その事実を事実として申し上げた。こういう事実を事実として申し上げることができないという言論空間をつくること自体が私は間違っているのではないか、このように思います」

安倍総理「端的にお答えをいたします。いわば、これは幣原喜重郎内閣でございましたが、ここで憲法をつくるということになった。そこで、松本烝治氏が担当の大臣になって、いわゆる甲案、乙案というものをつくったんです。それを、先ほど新聞名が挙がりましたが、毎日新聞がスクープしたんですね。西山柳造という記者がこれをスクープしたわけでございます。

 そして、それを見て、GHQは、これは絶対に受け入れられないという中において、ホイットニー当時の准将がケーディス氏に、民政局の次長に指示をして、約8日間で25人の委員でつくったのは事実だろうと思います。そして、それが草案になったところでございます。

 そこで、私が大切にしているところは、やはり私たちの憲法なんだから、この中において、もちろん、平和主義、国民主権などなどありますよ、基本的人権、そうしたものは守っていかなければいけませんし、これは貫いていく必要があるんだろうと思います。

 そして、それは私も今まで評価もしてきているわけでございます。ただ、形成過程がそうであったという事実は私たちはしっかりと直視をしなければいけない。歴史を直視しろというのはそういうことなんですよ。

などと答えている。

安倍総理の主張はあたかも毎日のスクープがけしからん。そしてGHQがつくったのがけしからん。といっているようだけれど、ゴマかされてはならない。ここでけしからんのは、戦争で人権を奪い、多くの犠牲を強いられながらも、新たな憲法案として、主権在民もはいっていない、明治憲法とほぼ同様のものしかまとめられなかった、当時の政府の憲法のとりまとめ役、松本烝治氏らのほうだろう。むしろ、鈴木安蔵先生ら、7名の憲法の民間研究者からなる憲法研究会が1945年12月26日に「憲法草案要綱」をつくっており、当時のGHQはそれを大いに評価し、戦争放棄、国民主権、人権を踏まえてその理想を掲げて草案をつくりあげている。その後、国会で森戸辰男氏が「生存権」を提言しそれが追加されてできたのが日本国憲法。

だから何も「短い間にGHQにつくられた」からって、駄目な憲法ではない。ある意味、普遍的な人権や自由や平和について定められているものなのだ。軍事下治安維持法で圧力をかけられていた日本国民は本当の事を言う事が怖くてできないといった社会だった。そうした社会を払拭し、国民全員に自由と人権をもたらす重要性からみてば、実に優れた文章であることがわかるはずだし、松本案でなくて良かったと心から思えるはずなのだ。

あたらしい憲法の下、戦争を絶対に二度と引き起こさない、人権が守られた真っ当な国づくりを国民主権で立ち上げる。ここに立憲民主義の歴史がはじまっているのだ。

この動きを左翼傾向の強いGHQ内部の軍人たちが短期間で書き上げ、それを日本に押しつけたものである 

とはどんな解釈なのか。これは一国の総理大臣として恥ずかしい。

それと、

立憲主義についての解釈があまりにおかしすぎる。

国の権力を憲法によって縛るという立憲主義について、「専制主義的な王政があった時代のもの」などとしている。それで「古色蒼然」との決めつけが行われている。ここが根本的な間違いである事がなぜ解らないのだろう。民主主義で議会も存在したドイツで、ナチスヒトラーが犯したユダヤ人大量虐殺の実態はどうか。そして世界大戦に突入した日本の戦前、あの時も国会があり王政の時代などではなかった。しかしドイツでも日本でも権力者達は平気で国民の基本的な人権や自由を奪い、大量虐殺や、特攻などで国民の命さえも奪うことを平気でおこなっていた。

民主主義で多数決で物事を決める時代にあっても、国民の基本的人権や、平和、自由を乱す法律はつくれないし行使できないという縛りをかけているのが近代、現代立憲民主主義国家の当たり前の姿なのだ。

真に、国民や市民を理解しない総理大臣だから、立憲主義がわからないのだろう。

立憲主義は、国民が憲法によって権力者たちを縛るもの ということは普遍的な原理原則だ。

自民党草案は、その縛りを権力者たち側から解いて、逆に国民に義務を多く課して権力者たちが国民を縛るというアベこべのものになっている。

立憲主義も全く理解せず、むしろ曲解している輩が暴走しているにすぎないのだ。

主権者たる国民である私達は、私たちの自由や権利を守るためにつくられた憲法を乗り越えて政治を行おうとしている権力者たちを厳しく糾弾し、それを阻止しなくてはならない。

70年前の第二次世界大戦では、310万人もの国民が犠牲になった。それを教訓に憲法を定め 世界に二度と戦争を引き起こさないことを誓い、自由と人権を国民全員に行き渡らせようとした。その根本精神を絶対に忘れてはならないのだと思う。

 

 

 

 

 


日本の河川の民主主義


1991年。東京でデモがあった。当時、全国に残るダムのない一本の美しい大河、長良川を守ろう。河口堰建設反対!を訴えるものだった。写真は東京デモの宣伝看板。当時26歳の僕が生まれてはじめて参加した初めてのデモだった。天野礼子さんや椎名誠さん、野田知佑さん、夢枕獏さん、立松和平さん、近藤正臣さん、CWニコルさんらがよびかけていた。僕らはその後、毎年、時には年に数回、長良川現地の河川敷でカヌーデモや大規模集会に結集した。カヌーデモの仲間で長良川や気田川、那珂川を毎週のように下るのが当時の唯一の楽しみだった。 長良川の河口堰は建設されたけれど、この長良川の闘いを教訓に1997年、河川法が変わった。住民参加と環境が加わった。住民投票運動で吉野川の河口堰建設は住民が止めた。いくつかのダム建設は止まった。このときも一人一人の市民の力は微力だったかもしれないが、一つの社会現象をつくりだし、良心のある官僚の心を動かし、頑固な国の政策を変えたのだ。

 しかしながら河川には、原発推進の原発ムラがあるように河川ムラがあるようで、川の民主主義を未だ羽交い締めする。多数工作により科学的真実が未だにねじまがっていて、真実の言葉を排除してしまう政治がまかりとおっている。手遅れになる前に真実を多数化しなければならない。戦後70年の立憲デモクラシーも、平和主義も、今大きなピンチを迎えている。今、空気に流されず、真実を見、信念をもって行動すること。か。

 ちなみにキャンプが得意なカヌーデモ仲間は95年阪神淡路大震災の現場にも当初に駆けつけてくれ、実に頼りがいがあった。災害の立て直しも世直しも同じなのだ。今もかけがえのない仲間だ。写真は今も行動を続けている仲間がUPしてくれた。僕もがんばろう。

 

 


立憲か、非立憲か。しっかり正すべきだ。


立憲か、非立憲か。つまり、これまで70年続いてきた憲法遵守の政治か、憲法を乗り越え、人に立つナチスのような独裁政治か。ということ。安保法制も、1/3の国会議員が求めても年明けまで国会を開かない事も憲法違反。もはや、現政権は旧来の自民党がかかげてきた保守政治ではなく革命政治なのだ。これが問われている。
 
今日(1月5日)の国会論戦。代表質問だから割と一方通行になっているが、野党はいいとこ突いていたと思う。
 
●安保法制 =憲法違反
●国会を開かなかったこと =憲法違反
●1100万人もの高齢者への3万円給付がおこなわれるのが5月か6月の参議院選挙の直前=税金を使った、あからさまな選挙対策では?
●  軽減税率 導入の根拠1兆円の財源の根拠がわからない。
●従軍慰安婦問題=自らの言葉で一切話さない。
 
これに対して安倍総理は答弁していたが、いつもながら論点はずし、答えにならない答弁だったと思う。
 
 
以下、朝日新聞 天声人語1月6日に共感する。
 
▼開幕した通常国会を「未来へ挑戦する国会」と命名し、参院選後の改憲もうかがう。思えば去年も、首相は「戦後以来の大改革の断ログイン前の続き行国会」と位置づけ、立憲主義を壊すとの多くの批判にも耳を貸さず、安保関連法を成立させた。「変える」ことへの前のめりな姿勢は引き続き健在のようだ▼こなた、主催者発表で5千人が昨日の東京・新宿駅西口を埋めた。安保法廃止と立憲主義の回復を求める「市民連合」が催した「新春大街宣」である。老若男女、多様な参加者らが上げた声の基調は、変えることを「止める」だった
▼思想家の内田樹(たつる)さんが語った。政権は国のかたちの大転換を急ぎ、暴走している。人々はあまりに速い変化に不安や危機感を抱いている。いま一番大事なのは「止めること、我々自身も立ち止まることだ」と▼映画作家の想田和弘さんも訴えた。仮に日本でテロが起きた時、「やられたらやり返せ」の声が社会を席巻するかも知れない。「その流れにストップがかけられるか」。これも重い問いだ▼止めるか、変えるか。二つの始動の風景が改めて教えるのは、立憲か、非立憲かという対抗軸である。首相の立憲主義観はいかなるものか。野党は国会論戦を通じて体系的に引き出し、国民に端的に示す責任がある。
 
 
 

基準該当 生活介護というサービス


なかなか慣れなかった介護デイサービスの仕事も3ヶ月。送迎の道も、日々の事務作業にもだいぶ慣れてきました。そして「共生型」として取り組んできた、高齢者施設に障害者を基準該当で受け入れ可能にする制度導入についても10月15日に認可され、あとは具体的な請求業務ということで取り組んできました。基本的に介護施設の許認可などについては、県、庄内支庁が窓口です。ところが、基準該当サービスについては認可は市がおこないます。ここ3ヶ月介護保険の高齢者ケアについては請求業務は大体飲み込めましたが、今度は障害者総合支援法がらみで基本から勉強のし直しといった感じです。市の担当、県の担当、障害者、国保連の障害担当の皆様に伺いつつ利用者の10月分の請求のPC打ち込みをおこないました。

基準該当生活介護

   

主な基準

 

介護保険法による指定通所介護事

業者が、地域において生活介護が提

供されていないこと等により生活

介護を受けることが困難な障害者

に対して指定通所介護を提供する

もの。

1従業者:基準該当生活介護を受ける利用者数を含めて当該

指定通所介護事業所として必要とされる数以上

2設備等:食堂及び機能訓練室の面積を上記合計数で除して

得た面積が3m²以上

3その他:指定生活介護事業所その他の関係施設から必要な

技術的支援を受けていること。

(法基準第94条抜粋)

介護保険法による指定小規模多機

能型居宅介護事業者が、地域におい

て生活介護が提供されていないこ

と等により生活介護を受けること

が困難な障害者に対して指定小規

模多機能型居宅介護のうち通いサ

ービスを提供するもの。

1従業者:基準該当生活介護及び特区により提供する自立訓

練を受ける利用者数を含めて当該指定小規模多機能型居宅

介護の通いサービスの利用者数とした場合に、当該指定小規

模多機能型居宅介護事業所として必要とされる数以上

2設備等:居間及び食堂は機能を十分に発揮しうる適当な広

さを有すること

3その他:指定小規模多機能型居宅介護の登録定員は、指定

小規模多機能型居宅介護の登録者数と基準該当生活介護と

みなされる通いサービス及び特区により提供する自立訓練

とみなされる通いサービスを利用するための登録者数の合

計数を1日あたりの上限とし、25人以下とすること。また、

通いサービスの利用定員は、登録定員の2分の1から15人
までの範囲内とすること。

指定生活介護事業所その他の関係施設から必要な技術的

支援を受けていること。

(法基準第94条の2抜粋)
     

となっており、うちは、介護保険法による指定通所介護事業者である。生活介護には二通りあって、

Ⅰ 通所介護事業者とⅡ 指定小規模多機能型居宅介護施設。Ⅰは691単位 Ⅱは851単位。

これまで当事業所の利用者で高次脳機能障害の障害者認定を受けている方は自費利用だったのですが、これでサービスについては自費負担ゼロで支援できるのです。

毎月10日が請求締め切り日だったのですが、6日の金曜日には終えることができました。まずはやれやれです。。

10月15日に正式に番号が与えられ、介護保険法による指定通所介護事業所である わが施設は、障害者総合支援法による国保での生活介護サービスを障害者におこなえる施設となったのです。共生型デイへの一歩前進です。

小規模デイサービスについて国では淘汰しようとしているということも聞きます。しかしながら小規模だから一人一人の利用者の方に対して目配り気配りができるし、天気に応じてドライブに行くなど機敏性に富むレクリエーションができる。この秋は朝日、田麦俣の七つ滝の紅葉に皆さん驚嘆されていました。来週は加茂水族館に行きます。心が元気になるような瞬間を味わっていただきたい。などと思いながら連れ出すのですが、こうしたことができるのも小規模ならではの特性であるととらえています。

小規模事業所での基準該当 生活介護を行うことは、昨今ずいぶん厳しくなりつつある小規模事業所にとって少しだけ経営にも貢献するようです。

いずれにしても少しだけ新たな展開。一歩一歩進めていこうと思います。なお、この11月28,29日は施設の配慮で富山でおこなわれる共生型デイに集う方々のフォーラムに参加させていただきます。しっかり学んできます。

 

 

 


TPP交渉大筋合意!? これも公約違反、国民への背任行為だ。


TPP。

ずっと反対表明をし続けてきたTPPの交渉が大筋合意 昨晩の甘利大臣、そして安倍総理会見は、以前の選挙で「TPP反対」のポスターを貼っていたのをご存知の方も多いだろう。この大筋合意後の記者会見で、全く開き直った姿勢で安倍首相は

「日本と米国がリードして、アジア太平洋に自由と繁栄の海を築き上げるTPPが大筋合意した」と述べた。また「世界経済の4割近くを占める広大な経済圏が生まれる」と強調。その上で「その中心に日本が参加する。TPPはまさに国家100年の計だ」などと述べている。さすがは、国民無視の憲法破壊の総理大臣の言葉だと思える。
これまでTPPについて私は県議会で反対を表明し、農政や医療、公共事業入札などについての影響について広報誌などで伝えてきた。反対集会にも数多く参加してきた。その集会には自民党の県議もほとんどの方が参加し「がんばりましょう」と拳をあげていた。

山田正彦元農林水産大臣は、差し止め訴訟の運動をおこなっている。園FBには、以下のようにあった。

ーーーー以下 引用

TPP交渉このまま大筋合意になっても、米国議会は大統領選挙終るまでは、塩漬けの状態のまま批准できません。

米国議会では、1票差でTPPの前提となるTPA法を採決しましたが、当時賛成に回った有力議員も、今回の大筋合意には反対です。

カナダの労働総同盟の会長にもお会いしましたが、世論調査では、近く総選挙でハーバー首相からTPP反対の首相に交代するそうです。

ペルー、チリ、、マレーシア、豪州、NZ5ヶ国はバイオ医薬品の保護期間ジェネリック薬品が作れ無くなることだけでなく、医療費が2,3倍になることに反対しています。

報道されていませんが、遺伝子組み換え食品の表示、国民皆保健の制度等も国有事業、ISD条項なので、米国企業との公平な市場競争のもと壊されて行きます。

お願いです。シエア、拡散して頂けませんか。

今回の交渉、安倍、甘利は、日本だけ自動車にしても、農産品にしても全て譲ってしまいました。

しかも、成立しても、内容を議員、国民にも知らせない秘密保持義務が4年間も課されているのです。

しかし、私達の闘いはこれからです。

まず、違憲による差止め訴訟、実質審議に入って11月16日、第2回公判です。第3次訴訟の原告を求めています。

米国、日本の議員にも手紙を書いて批准させない運動等。

 

ーーーーー以上引用。

このTPPを国民が許してはならない。日本の農業、日本の社会構造を守るためにも、更なる運動が必要だ。私も正確な情報を集めつつ運動を展開していきたい。


立憲主義、民主主義 平和主義の破壊を許さない。


安倍政権の暴挙。この9月17日の委員会強行採決の暴挙とともに、18日の国会での言論封殺19日の採決までの事。絶対に忘れてはいけないと思う。私も路上で連日違憲立法するおかしさ、恥ずかしさを訴え続けてきた。

まず17日の委員会では大体20名の委員会の外の自民党議員と自民党議員の秘書らが委員内に乱入。委員長を取り囲み、自民党の議員が動議を読み上げ、立ったり座ったりし、何を語っているかもわからないまま、乱闘騒ぎの内に採決にいたった。議事録には記されていない。そしてこの間おこなってきた中央、地方公聴会の報告も、締めくくり総括質疑もおこなわれず仕舞いだった。

言論の府というべき国会、良識の府といわれる参議院が自民与党の「かまくら」戦略の暴力の場に変わった。とんでもない話である。その後、本会議では、総理大臣や委員長などの不信任決議に対しての討論。驚いたのは参議院の討論が動議により15分に制限されたこと。その時間に及ぶと「ルールを守れ」のヤジの大合唱。ルール!? 違憲立法を成立させようとしている議員らのほうがよっぽどルール違反だ。中継を観ながら僕は「ルール違反というなら憲法違反をやめろ」と思わず動画にコメントした。最終討論での福山哲朗氏の討論は秀逸。そして討論も許されなかった山本太郎氏は牛歩の後、

「アメリカと経団連にコントロールされた政治はやめろ!
組織票がほしいか!ポジションがほしいか!誰のための政治をやってる!
外の声(国会前と裏で反対を叫ぶ人々)が聞こえないか!その声が聞こえないなら政治家なんてやめた方がいい!
違憲立法してまで自分が議員でいたいか!

と議席からヤジが飛ぶ中で壇上から訴えて投票した。

憲法違反の法律をつくることが如何にこの68年の歩みを破壊することになることかという重大性を賛成票を投じた議員達は感じていないだろうか。

感じていないでしょう。あの姿勢は。

そして、「国民はどうせ真実なんか理解しない、そしてどうせ半年も経てば忘れてくれるはずだ」と思っているに違いない。

とんでもなく国民は愚弄されているのだと思う。果たしてこんなことでいいのかということだ。

路上で何度も訴えてきたことだが、圧倒的多数の憲法学者と学識経験者はもとより、歴代の内閣法制局長官 が、衆参両委員会で安保法案は「違憲」だと表明し、参院での審議過程におい ては最高裁判所元長官が、明確に憲法違反の法案であると公表し、この法律は憲法違反であることは明々白々だ。

そして参議院までの質疑の間に、ホルムズ海峡の機雷の除去、米艦防護などの根拠というこの法律がそもそも何のためにつくられるかという、立法事実がことごとく崩れている。

 

安倍総理自民党は「積極的平和主義」といって平和のための軍事同盟の抑止力を掲げ、暴挙を続けている。

 

ここに日本国憲法前文をとりあげる。 ここに本来の積極的平和が示されている。

 

 日本国憲法 前文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
 これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 

アベ政治の「積極的平和主義」は真逆である。憲法に縛られこれを遵守し守るべき義務を追うのは総理大臣や大臣、国会議員、官僚、公務員である。守るべき者たちがその秩序を破壊したとき、それはクーデターとして主権者である国民から非難されなければならない。


 我々主権者は、この憲法を守る義務はない。しかしながら、この前文に描かれた憲法理念を空文にせぬように努力する義務を負っている。国民個人の人権や自由を守り続けてきた憲法を破壊する暴挙に対して徹底抵抗し、権力者による暴力や専制による武力行使、人権侵害を絶対にくい止めないといけない。

 

9.18は憲法破壊 立憲主義、民主主義、平和主義の破壊がおこなわれた歴史的クーデターの日。絶対にわすれまい。そしてそれらを取り戻す。アベ政治の打倒と 憲法奪還へのスタートは切られた。

 

真の平和、持続可能社会のために。右でも左でもなく、前進あるのみだ。