月別ア―カイブ: 7月 2004
中之島ボランティアセンターより
18日 ボランティアセンター立ち上げ日、ボランティア数1198名。
昨日19日、ボランティアの数1648名。昨日は、連休最終日ということもあり、県外からも多数のボランティアが参加。午前九時オープン予定のセンターを30分くりあげて受付をする。受付レーンに一挙に受付。現地のニーズは、泥上げ が大半。昨日にひきつづき、電話を受けてのニーズの他に、町内単位の班長さんがボランティアを「何名ほしい」と迎えにきてくれた。七番町は250名ほどのボランティアをひきつれて、現地でふりわけて作業にはいった。決壊現場に近い場所は、家にはいった泥を書き出す作業でほとんど終始している。
ここでひとつ困った状況が生じている。
土のう袋が足りない!
土のう袋が、今、現場でのトップニーズだ。単に土砂をいれる丈夫な袋だが、それがないと自衛隊も業者も土砂を外にだせない。役所では、「一件につき五枚」と言って住民にわたしている。平等優先の役所でよくやりがちなことだが、現場が見えていないのだ。「役所じゃ五枚しかくんねえからよう、買うしかねえんだ」と被災地の住民はこぼしているが、それはナンセンスだ。ボランティアの現地での活動にも何がなくても、この泥かきだし作業にこの土のうはいくらあっても足りない状況。今現在の支援物資の最筆頭として「土のう袋」といいたいのだ。
昨日18は、長岡JCの方が十回ぐらい車で往復して、僕も二度ほど、一輪車を使って、土のう袋約1万袋を作業現場に運んだ。家の敷地全体に五十センチもの泥が堆積している現場がたくさんあるわけだから、これは当面相当数必要なのだ。
(20日になってこれは県、国マターだとして国交省信濃川河川事務所と交渉。案の定国の機関にはたくさんあるとのこと。それもそうだ。水防の必須アイテムがこの土のうだから、いろんな水防の事務所や倉庫に振り分けて相当数備蓄しているはずだからだ。とりあえず3万袋を発注した。水害時の泥かきだし作業をともなう時の国の’復興支援物資としてきちんと位置づけ、とにかく現場救援のために大量投入することを求めたい。)
午後三時すぎ、小泉首相が被災地視察のために中之島にやってきた。警察が、(なんでここに神奈川県警がいるのか不思議だった)相当数増員され、上空にはヘリコプター2機が警戒こんなボロい「ボラセン」になんかこないだろうな とみんな思っていたが、災害対策本部(となり)に着くとそのままとなりまで歩き、ボランティアセンターの中にぞろぞろと現れた。マスコミはあまりとりあげなかったようだし、いろいろ思惑もあったのかもしれないが、ボランティアセンターに足を運んでくれたことだけは評価しておこう。
二十日 朝。 晴れ。
被災現場は、粉塵がまっている。匂いも結構きつくなっている。朝から、粉塵マスクを現場にむかうボランティアにもたせる。
ボランティアセンターは、朝七時半からフル稼働している。午前九時にはボランティアの受付開始。平日の今日からがもうひとつの勝負。午前11時現在。現在366名。さすがに連休時とは違う。ぱらぱらといった感じの状況。現場は、泥だしや、家具だしをおこなったり、家屋に水をかけて洗ったり。作業はいくらでもある。
20日は、結局 男性353名 女性76名 の429名。
ニーズ133件に手をつけられない状況だった。これは徹底的なボランティア呼びかけが必要だ。
送迎バスがでます。見附⇒中之島ボランティアセンター
いけなかった件数 133件 だれもいけない。
ほしいボランティア537名必要。
三条市災害ボランティアセンターHPは、
http://npo-aichi.or.jp/ssvc/
新潟水害の現場ー2中之島町より
中の島町。
今朝より、町民文化センターのとなりにある木造の体育館に、本格的に中之島町の水害ボランティアセンターがたちあがり、朝からニーズ調査として被災地を歩いた。
決壊し、泥流が町をのみこみ、車や家を押し流した現場。
決壊個所から周囲約百メートル。約30件は泥に押し流され、ほとんど家々は崩壊に近い状況。そして昨日も雨のため午後5時には避難勧告がでて現場にいることを許されなかった住民の人たちにとってもひさびさに天候が回復した今朝から本格的な復旧作業といったところだ。
中之島町は、町役場自体が水没したため、災害対策本部は、町民文化センター内に設けられている。そのセンターから、1キロもいかないところに最もひどい現場があるため、ボランティアは徒歩で現場へ行く。幹線道路沿いの被害のひどい場所には自衛隊が200人ぐらい、重機などを使いながら復旧作業をおこなっていた。そして路地に入ると、まだ水が完全に引かない中。また泥が厚さ約50センチも堆積している中、泥の中で、全身どろだらけになりながら、住民の格闘がおこなわれていた。親戚縁者、知人友人総結集で作業していたところはあったが、人手はいくらあっても足りない。「ボランティアさんかい、何人でもいい、早く送ってくれ」と家々で呼び止められる。バケツリレーで泥を家からかきだす。水没し、泥まみれになったたたみや家財道具を家からだす。土のう袋にいれて使い物にならなくなった財産をどんどん外につみあげていく。場所によってその様子もかなり異なるけれど、ほとんどの家々で、いつ終るともしれない途方もないように思える作業に挑んでいた。
今日は、ボランティアの人数が千人を越えた。みんな戻ってくることには全身泥だらけになりながら、奮闘。高校生から、60代、と思しき老若男女、志で集まった皆さんの大健闘。
「いやあ、とにかく現場はひどかったですね。精いっぱいやったけど、いつまでかかることやら」
これは現場からもどってくるボランティアのホンネだ。とにかく現場に立つと、その深刻さがずしりとくる。でも、着実に、みんなの力が現状をいい方向に変えている。
神戸のときもそうだったけれど、被災者の方には、これから、いろんなものがふりかかっていく。自分の家に住めるようになるのか。住めたとしても、家財道具は全部ゴミと化してしまった。それをどうするのか。水没した車はどうするのか、家族はこのまま作業が続いても大丈夫なのか、火曜日から会社だけれど、仕事ができる状態なのか。商店は再会できるのか、被災地の現場の住民だけの特別の時間が流れ始めている。土手の川の向こうには、全く別のフツー時が流れていることを思うと孤独感や、絶望感がつよくなっていくのではないだろうか。
中部水害の3倍ともいえるこの水害は、かなりの長期戦といえる。まずは全国からの愛をゆっくりと、この近くて遠い被災地に、送り続けることが必要だ。
私のホームページに現場の画像をアップデートしています。
どうぞご覧下さい。
http://homepage.mac.com/stern8/PhotoAlbum2.html
http://www.kusajima.org
現地の情報
草島です。朝取材をした後、
行革関連のPMフォーラムを終えて三条に戻りました。
今21時をまわったところ。燕三条の駅の車中からです。
三条のボラセンは完全にたちあがり、中の島のボラセンのたちあげに、今、力が注がれているところ。しかしながら、三条も中の島も今日の雨のため、避難勧告がだされたため、撤退、明日朝からの作業になるとのこと。特に中の島周辺は、水没している道路も多いため、三条周辺に待機するようにアドバイスをうけました。
庄内地方も立川三ケ沢あたりで浸水の被害がでているということで、今晩の雨の具合によっては、一度地元に戻ることも検討中です。
現在のところの有益情報リンク集です。
災害現場の簡易地図
http://www.gsi.go.jp/BOUSAI/16niigata/index.html
新潟県HP
http://www.pref.niigata.jp/
信濃川河川事務所(防災情報(気象、災害、交通)リンク集多数)
http://210.131.8.12/~shinano/0to24/bousai/index.html
三条市情報(画像、即時的な掲示板)
http://www.kenoh.com/index.html
NHK新潟(携帯からも→ http://k.nhk.jp/ )
http://www3.nhk.or.jp/saigai/index.html
新潟日報(地元新聞)
http://www.niigata-nippo.co.jp/index.html
新潟水害
7月15日水曜日、みどりの会議の反省会にいくとき、三条市をとおる新幹線から、でっかい湖のようなものが見えた。水は引いていない。とにかく、メディアの情報はあてにならない。早く現場にはいらなければ と思いながら遠くに広がる茶色い水面をみつめた。
16日は、午前中議会だより編集委員会。午後から準備。諸々あって、夜出発。
17日、深夜午前2時。三条市にはいる。車でぐるりとまわってみる。家がつぶれている。たくさんの家財道具がすでに表にだされ乾かすのを待っていた。小雨がぱらついている。
ぐるりぐるりと街の状況をみながらしばらくして、偶然ながら、県民福祉センターというところに着いた。Kさんから、ボランティアセンターがたちあがった場所の名前だった、社会福祉協議会もあり、ここかと思った。
いってみると2人のちょうど僕と同年代ぐらいの社教の職員の方が膨大な物資を前にして迎えてくれた。
センターの中にはいってみて良く見てみると一部の床の一面が泥で茶色かった。そして、コピー機や、事務用デスク、椅子などが、積み上げられていた。「ここも水没したんです。私の車もここの駐車場においていたんですが、運転席の窓ぐらいまで水没で動きません。そういえば、さっき通ったコロナの会社の駐車場から、泥だらけの車が、つぎつぎと運搬車につまれていた。「5千台ぐらいはいっているんじゃないですかね」彼はいった。
五十嵐川の決壊を予期する人は誰もいなかった。あれよあれよという間に決壊。100年に一度の洪水に備えるというダムが2つもあるのに、あのありさまだ。
その福祉センターには50名の避難民がいるのだと聞いた。「今日も、結構な雨が降って、その住民の間では、また、「きれた」とか、今度は上流部だとか、デマ情報もとびかって 結構おびえているんですよ。
なお、このセンターのま周辺には、パール勤続や「ムサシ」があり、当初から、ボートやキャンプ道具などの提供がおこなわれたそうで、このセンターの前にも、5艇ぐらいのゴムボートが積んで合った。
車中泊。
朝、あけて、午前7時、Kさんからの電話でおきる。朝のうちに写真はとっておいたほうがいい。アドバイスをうけ、写真をとってまわる。決壊の現場を見ようと対岸に車をおいて歩くと、2人の中年女性が決壊した場所を指さしながら、話をしていた。「おはようございます」と話の輪にはいる。対岸すぐのところに暮らしていると聞いた。「いきなり水があがってね。上の方のくぼ地が危ないとかいって騒いでいたら、すぐに、あの部分がきれたのよ。もう、ものすごい波でこわかったよ」
とにかく音がすごかった。と、今でもまだ濁流色の茶色い五十嵐川を指さして話してくださった。
決壊してからは、一日中ヘリは飛んでくるし、マスコミのテレビはずっとはりついていてす大騒動だったと聞いた。
決壊の現場にいった。大きなナイロン袋につめられた土のうが数百つまれ、
その決壊現場から、100メートルぐらいにはひっくり返った車が砂で埋まっていたり、ぽつんと泥の真ん中に車や小屋が浮いているといった、状況。
そしてその周辺の家々は、地面から2メートルぐらいのところに泥の跡がついていた。「今のうちにだめになった家財道具をださなくちゃ」そうした家族たちによって懸命に、駄目になった家財道具が次々と表にだされている。
これは人手がいる。とても親戚縁者でできるお片づけではない。
かなりの長期戦だ。
今朝の新潟日報。「きょうも大雨恐れ」とある。被災現場にこれ以上の雨がふらないように祈る。また、村上、鶴岡は今激しい雨が降っているようだが、無事なことを祈る。
7時で、相当の人が動き始めていた。運良く今朝は小さな晴れ間がのぞいている。親戚の人、友人をかきあつめて、作業がおこなわれていた。
ボランティアセンターには、昨日、300名もの申し出があったそうだ。。素晴らしい。また、市民の新しい文化をはじめよう。新しい自分、新しい日本に出会える現場が動き始めた。
BLOGを再新設しました。
草島BLOGを再び開始しました。以前とは違う社のものをつかっているので、まだ馴れませんが、よろしく。
昨日、7月13日は、議会では合併問題特別委員会がおこなわれ、地域審議会の件について、話し合いがもたれました。各会派代表が、検討結果を発表しましたが、
僕は、この地域審議会というのは、合併後、地域の声が反映されにくくなるおそれがあるということで設けられた地域審議会。最低限10年間はきちんと確保されるべきと主張しました。
それと、6月25日におこなわれた合併協議会の前に、議長が議員定数検討委員会のメンバーを集めて新市名称をはなしあった件、草島「当局は何人たちあったのか」と尋ねると4名とのこと。公費で交通費が支払われていること、また、公費の職員がたちあっていることをかんがえれば、個人的な会合ではないことがわかるわけだ。
こうした公の委員会が、堂々と非公開、秘密会、議事録なしのかたちでおこなわれていることは極めておかしいと思わざるを得ない。まさに、住民不在、はなはだしいことがおこなわれているといっていいだろう。
○選挙戦。参議院選挙
たくさんの方々にご支援いただきましたが、あと一歩及ばず残念な結果となりました。
※公職選挙法により、ホームページ上でお礼を申し上げることができません。
何卒、ご理解下さいますよう、よろしくお願いします。
みどりの会議、惜しくも議席獲得ならず。20万票もの票をとった中村敦夫代表を当選させることができなかった。しかし、これからがまたスタート。総得票数:90万3,773票 得票率:1.6%