持続可能な鶴岡ブログ

持続可能な鶴岡ブログ
トップページ > 持続可能な鶴岡ブログ > 月別ア―カイブ: 1月 2025
月別ア―カイブ: 1月 2025

日本の洋上風力発電は岸に近すぎる!(11.30日本科学者会議まとめ)


日本の洋上風力発電は岸に近すぎる!
 


【最新!】山形県遊佐洋上風力発電事業 2025.1.31  事業決定した丸紅、関西電力、丸高らの計画 
15MW×30基をH−Riskに入力すると、6300人が40.5dBに暴露。
「不眠症リスクが151人発生する!」とシミュレーション結果がでました。

NEW遊佐配置図 New遊佐レベル範囲 New遊佐不眠症コンター New遊佐参照値

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本科学者会議 2024.11.30 第25回総合学術研究集会のまとめより

2025.1.24 

 

山形県遊佐沖 15MW×30基 、秋田県由利本荘沖 13MW×65基が離岸距離2km〜5kmに
建設されようとしている問題について


主に
●風車騒音による健康被害
●国際的に保護されている渡り鳥への影響
●オーフス条約(日本は批准してませんが)の意図に反するの法定協議会 

という問題 が存在する。

5分でこの問題をまとめたものです。



この問題については、昨年11月30日、日本科学者会議 の総合学術研究発表集会で
風車騒音の研究者、野鳥の研究者とともに3時間のセッションをおこない、問題が
科学的に明らかな根拠を持って明らかになりました。

こちらは33分で概要をまとめた編集映像です。


全体はこちらになります。



この案件については国会質問として、参議院厚生労働委員会で2023年6月、参議院環境委員会で2024年6月4日 立憲民主党 川田龍平議員に質問いただいておりました。私は質問づくりに参画しました。

これまでの2質問で得られた成果は

参議院環境委員会2024にて


「海外で10MW以上の洋上風力発電で離岸距離10km以内に稼働している実態はない」

という環境省見解です。

動画

 

問題として、

●風車騒音の規制値について

風車先進諸国をはじめほぼ世界で41dB 38.5dBなど、風車騒音の上限規制値を定めているが、日本の規制値は
指針として「残留騒音+5dB」のみで上限がない。

この問題については、日本国内で1000人規模の疫学調査で41dBで不眠症リスクが5倍になる
と結論した疫学研究結果がある(元 国立環境研 影山隆之氏)がその論文が無視されている。

●陸上風車をはじめ、巨大化する洋上風車に対する騒音規制値を定める必要がある。


●洋上風力発電について

現行の促進区域、の離岸距離2km〜5kmは、世界に事例がない非常識であること。

●風車騒音問題では、遊佐の案件で250名の不眠症リスク。由利本荘の計画で1000名の不眠症リスクのシミュレーションが発表されている。(北海道大学 田鎖研究室)




●国際的に保護されている天然記念物 マガン、シジュウカラガン、オオヒシクイ を初め、コハクチョウなど日本海沿岸の渡り鳥の渡りルートと建設予定区域は合致しており、バードストライク、生息地の変更などが生じるおそれがある。
ラムサール条約指定湿地である。鶴岡市 上池下池、新潟市 佐潟 などに影響をあたえかねない。


●計画の策定の手続き、プロセスについて、法定協議会に参加できているのは、立地自治体の首長と漁業者のみであり、風車騒音の研究者も鳥類の研究者も席についていない。
国際的に批准されている「オーフス条約」に完全に違反している実態がある。

以上のような問題があります。


政策変革のポイントとしては、

●風車騒音の上限規制値を定めること。

●洋上風車の着床型の風車の促進区域を少なくとも10km沖以上岸から離すこと。
(浮体式にする必要がある)

●法定協議会を、環境NGO,風車騒音、鳥類の研究者も参画させるオーフス条約に批准したものにすること。

●EEZまでの洋上風力発電については、オーフス条約に批准したあらゆるステークホルダーが参画した上でのMSP(海洋空間計画)の策定が必須であること。

【関連記事】
朝日新聞 札幌支局 2024.11.1

2024 - 洋上風車 騒音リスク置き去りjpeg

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

洋上風力は日本を救うのか、壊すのか。「情報屋台」 高成田 享 さん

 

●note(筆者)2024。6.2日本の巨大風力発電計画は、岸に近すぎる! これは持続可能な開発ではない。

 


神戸元気村からOPENJAPAN 開催!25.1.18


【神戸元気村からOPENJAPAN!(開けゴマ)】 1.18開催!
当日の映像アーカイブ 配信中!
 

472248817_9480486348636996_6994675046087145650_n























 


●神戸元気村からOPENJAPAN トーク

新!4K(過去映像インサート)


●元気村ライブ2025@御影公会堂(音楽ライブ)4k

1月18日(土)。阪神淡路大震災から30年の1月17日を契機とし、当時、震災当初から7年間活動し当時、累計1万人を超える最大規模の災害ボランティア集団であった「神戸元気村」。

その支援活動をはじめた拠点である「御影公会堂」にて「神戸元気村からOPENJAPAN!(開けごま)」を開催します。 

*神戸元気村の歩み  http://www.peace2001.org/genkimura/

日時 1月18日(土)  

午後1時半〜16時 昼の部(無料)トーク   

午後6時〜8時半 夜の部(3000円 伝統のハヤシライス+α+1ドリンク)要予約

●昼の部 御影公会堂 301集会室 13時半 トークスタート。午後4時まで。(無料)

 

特別ゲスト がんばろう神戸 堀内正美

四万十塾 木村とーる

OPENJAPAN 日本カーシェアリング協会 代表 吉澤武彦

木名瀬がってん 

月とカヌー 鈴木匠 

アニマルレスキューシステム基金 山崎ひろ 

他、元気村スタッフ、ボランティアのみなさん。

 進行 山口晴康 スターン・草島進一 

当時から、能登半島地震支援までの数々の災害支援や市民社会の活動の現場、現状の課題や未来を語ります。(現地+各地ZOOMでつなぐ ハイブリッド開催)

●夜の部 「元気村ライブ」 御影公会堂食堂 午後5時半スタート 会費制 3千円(要予約090-4388-3872 stern8@mac.com)

伝統のハヤシライス+α+1ドリンク 音楽のセッション。

出演 桑名晴子 https://www.facebook.com/haleawa/?locale=ja_JP

   天野SHO http://www.sho-amano.com/index.html

   岡野弘幹 https://hirokiokano.com/

   魚谷のぶまさ https://www.facebook.com/nobumasa.uotani/

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

昭和8年建造の御影公会堂 1995年当時、神戸元気村は、バウさんと木村とーるの炊き出し「元気鍋」からはじまった。1月19日、御影公会堂の玄関での炊きだしがはじまり。1月23日に草島が合流。26日にはモンベルのムーンライトⅤで3張りのテントを建てて石屋川公園に寝泊まりして「神戸元気村」がはじまった。
18日は、30年ぶりに集まった、木村とーるさん、ハルさん、当時の事務局、杉森さん、がってん、、そしてがんばろう神戸で活動していた堀内正美さん。そして、当時エコリーグなどの大学生調査隊他、元気村で活動していたみんな、そしてOPENJAPANの代表、吉澤さんが熱いトークを重ねる最高のトークでした。
みんな集ってくれてありがとう!

夜の部は桑名晴子さん、天野SHOさん、岡野弘幹さん、魚谷のぶまささん、の最高のライブ!
御影公会堂の創設当初から80年継がれている伝統のハヤシライスの味を守るまきちゃんのトークにはじまり
最高!の舞台となりました。30名。よくぞ集まって下さいました。デザートは鶴岡の笹巻きも。

ぜひ皆さん、映像をご覧下さーい。 

スターン草島

——————————————————————

30年前も今回も、機材その他、いつも淡々とサポートして下さる信頼の盟友、ハルさん(山口晴彦さん)が、素晴らしいルポを書いてくれました。感謝❗️

「神戸元気村」からOPEN JAPAN(開けゴマ)トーク編

 

阪神淡路大震災30年と1日。1月18日にボランティア団体「神戸元気村」のはじまった御影公会堂に向かった。

阪急御影で降りて、この時期にしたらあったかい日差しの中をあみだくじのように歩いていたら目の前に天満宮が現れた。

ちょうど姪っ子が受験してる頃だと思い手を合わせ、境内に置かれた震災モニュメントが目に留まる。

石屋川に出て、あの時あったテント村を思い出しながら、ぶらぶら御影公会堂まで。

この建物は1933年(昭和8年)に出来たアールデコ様式が美しい歴史的建築物で、第二次大戦時の神戸大空襲でも残り、ジブリ映画「火垂るの墓」にも登場する。そして終戦から50年経った1995年1月17日のあの大震災にもビクともせず、ここが避難所となり炊き出しがはじまった。

それが『神戸元気村』のはじまりだ。

今日の元気村30年の集いを呼びかけてくれた、元「元気村」副代表のスターン(草島進一)と久しぶりの再会を交わして、「お昼を食堂で食べましょう」とのお誘いを。「でも、やっぱりあの頃食べた「もっこすラーメン」に行きたい」と言うと、「それは是非!自分は朝食べできたので、ぜひそうして下さい」と。

店の貼り紙には「創業今年で48年」とあった神戸ラーメン「もっこす」は30年前と変わらず今も健在で、元気村代表のバウさんに時々奢ってもらって食べた思い出の場所だ。

懐かしい〜この味〜!

何年か前にも久しぶりに食べたけれど、でもやっぱり年のせいか、、今回は特に味が濃ゆくて、、強烈だった〜

 

会場に戻るとスターンが1人機材を並べてあたふたセッティングしていた。聞くとこの機材飛行機に全部載っけて山形から来たんだと!

前回23年目の集まりの時はうちの機材を提供した。でも今回は何も聞いてなかったから、前もって相談されたら用意したのに〜。おまけに、今日の進行に自分も名前が入ってたし

 

「ま、司会進行はスターンがやらないと。今日のゲストスピーカーの面々との関係やその内容がオレでは把握出来ないからね〜」と断った。

なので、イス並べたり、撤収手伝ったりは多少やらせてもらったけれど。

なんとかトークの時間に間に合って、人も集まってきたけれど、途中からも参加者が増えてきた。

最初は映像で30年前の「神戸元気村」を振り返った。

今は亡きバウさんの声が、あの時の神戸に連れ戻す。

 

それから、集まった「神戸元気村」元住民たちの声を聞く。

皆ほとんどは何らかの形で「神戸元気村」に参加した人たちばかりで、その人たちからの当時の話、そして今に至る話を聞けた。すごく良かった。

当時は大学生だった若者が、あの時「神戸元気村」に駆けつけて何も分からない中で自分たちでチームを立ち上げ、ケンカしながらも一生懸命文字通り「いのち」を掛けて活動した。あの時の神戸と「元気村」で体験したことは、一生に渡って影響し、現在の仕事や活動に大きく繋がっている。また、そんな仲間とも30年に渡って繋がって、今回も関西在住者だけでなく関東に住んでる何人かも神戸に駆けつけた。何かしら皆んな、あの時とつながる職業についたり、スターンと同じ市議になったりもいて、そんな30年つながる歴史が垣間見れて良かった。

その今を「あの時の神戸と元気村の経験が自分の人生の原点です」と熱く語る、当時は高校三年生で家がすぐ近くだった被災者であり「元気村」でも活動したのぞみちゃんの言葉にも感動した。

同じく被災して家を無くし、それでも元気村にて様々な活動を長年に渡って続けてくれた、現在99歳になる大櫛おばあちゃん。復興住宅に住み90歳まで自治会長として同じ被災住民の世話をして、今は請われてその団地の管理人として活躍されていると言う!その体験した言葉の数々に涙が出るほど感動した。

「あの時「神戸元気村」でもらった「元気」に、今も「元気」をもらっています。ありがとうございました」と。

そして、毎年三宮東遊園地で朝と夕方の5時46分にキャンドルを灯して追悼する1.17 KOBEの集い。それを準備する堀内正美さんが駆けつけて、30年にわたる想いを熱く語ってくれた。

俳優であり、ラジオ関西のパーソナリティとして震災直後から「がんばろう!神戸」と、電波に乗せて語り続けた堀内さんは、数日後にボランティア団体「がんばろう‼︎神戸」も立ち上げた。その時に「神戸元気村」代表の山田バウさんと話し合って、灘区、東灘区あたりを「元気村」が、そこから西の中央区、兵庫区、長田区、北区、須磨区、、を「がんばろう‼︎神戸」が担当して、互いに情報を交換しながら活動しよう!と。

その頃の苦労話はもちろん、それ以降起きた能登までの30年の各地の震災現場での、神戸以降未だに改善されない様々な問題も、具体的に熱く語ってくれた。

1.17集いの準備から、夜には東京で語り、そしてこの日また神戸に戻って。74歳になられる堀内さん、「この3日間一睡もしていない」とも。

そのような想いを込めて「30年」を本にして出されたと言われたから、是非購読したいと思った!

「喪失、悲嘆、希望」堀内正美

https://www.amazon.co.jp/%E5%96%AA%E5%A4%B1…/dp/491139000X

その後に話したのは、トールだったか?

あの元気村名物の「元気鍋」の炊き出しを一番多い時には一日7000食も作ったトールが、その元気さながらパワフルに登場して、元気を振り撒いてくれた。普段は「四万十塾」でカヌーガイドをやりながら、何か起きたら中越、東日本、熊本、能登、、地震だけではなくて、台風災害などにも駆けつける。そう言えば司会のスターンが「水害…」って言葉を使うと「水害って言うな。水に害はない!」とカヌーガイドとして川や水に感謝するトールならではの言葉を聞けた。「あ、暴雨害」(だったっけ?)スターン言い直してたな。

横浜から駆けつけたアノさんは、カワサキの愛車を飛ばして30年前やってきて、バウさんに出会って、それからも中越や東日本、能登にも、寒い時でもカワサキで駆けつけ続けている。アノさん、たしか同い年!スゲーなぁ!

また、現在「アニマルレスキューシステム基金」を主宰する山﨑ひろさんは「元気村」時代に試行錯誤ではじめた被災したペット、動物保護の活動。一度はアメリカだったか?海外に出向いて学び、再び東日本や熊本、能登にも行って各地に拠点を立ち上げて、たくさんの獣医や関係者たちと活動を続けている。今では一般にも知られるところとなった「さくらネコ」と呼ばれる不妊治療を施した証しとしてネコの耳をサクラの花びらのように刻んで印とする、そのはじまりを作ったのも彼らだったと聞いて驚いた!自分の地元でも何人か野良猫の不妊治療も含めて活動する知り合いもいるから、そこに「神戸元気村」が繋がったことにも。

この日は、ZOOMを通してのトーク参加も何人もあって、杉森くんや匠くん、がってん達の良く知る顔や懐かしい顔とともに、あの頃の今の話を聞けて良かった。けれど、それでも能登や災害現地で活動するヒューマンシールドの吉村くんやまっちゃんなどは、現地の今が手を離せないのか?画面には現れてこなかった。

それも「神戸元気村」だ!と感謝

 

「日本カーシェアリング協会」代表の吉澤くんは、震災当時は高校一年生で神戸には来れなかったけれど、後に誰か有名な人が自分の尊敬する人の名前を上げた中に「坂本龍馬と山田バウ」と。そんな風にバウさんの事を知ったそうだ。それから実物のバウさんと会って付き合う中で「震災の時に家や家財だけではなく車を無くす人もたくさんいる。たとえ命が助かっても、病院に行くとか、買い物、また壊れた家の片付けや引っ越しにも、車が無いとほんま大変や。だから、そんな時のために車をシェアする活動をやってみいひんか?」と言われたそうだ。それからこの活動を続け、現在まで延べにして(確か⁉︎)7000台の車を被災した人に提供してきたそうだ!

そんな話にまた、心が熱くなってしまった。

他にもたくさん、30年前と現在が繋がり、そして未来に続く話が色々聞けて、素晴らしい一日となった

 

最後の方で、夕方の「元気村ライブ」で歌ってくれる桑名晴子さんと一緒に来た和歌山のキタさん?が、「あの時元気村に立ってたティピーは、オレがキヨシやバグースのアキに声かけたんや〜」と聞いて、またビックリ!

それは自分が「神戸元気村」に決めたのは、その「ティピーが立ってた」ことが決定的な理由だったから。

自分が「神戸元気村」に行ったのは34歳誕生日の翌日(だから覚えてるいる)2月7日だった。それまでは被災した知人宅の屋根をブルーシートで養生したり、後日その家族の引っ越しを手伝った後に、どこかでボランティアをやろうと神戸の街を彷徨った。その時たまたま見かけたその場所にティピーを見つけて「あ!ここだ!」と。

それは、’92年からアメリカに生活の場を移して、主にアメリカ先住民各部族の国を訪ねて、時にティピーで寝泊まりしながら彼らの生き方や儀式を学ぶ。そんな旅を続けていた。また、そのきっかけとなったのが、「’88いのちの祭り」で、映画「ホピの預言」とその最後のメッセンジャーとして来日したホピの長老トーマス・バニャッカに出会ったこと。彼が言う、「来るべき近い未来に起こる大規模な地震や洪水、山火事、、また戦争や核の脅威、、それら予言された「大浄化の日」に備えるためには、自然界とのバランスを取り戻し、大地に根差した生き方に戻ること」。

そのような彼らからの警告と、自分が生まれた故郷の兵庫を中心に起きた、当時は経験した事のないような大きな地震とその被害。まるで「ホピ」の人たちの言う「大浄化のはじまり」だ。そう当時の自分には映ったからだ。

震災で破壊された街に立つ、ティピーという美しい、大地の家。そのシンボルが。

そんなティピーのある場所だったからか、「神戸元気村」には全国から草の根の自然に根差した生活を実践する人たちが集まってきた。既に信州松本から天然酵母手作りパンの「風のパン屋」けんちゃんがティピーで寝泊まりしていたし、いくつものティピーを持って日本最初のティピメーカー安曇天幕社のキヨシさん家族や大鹿村からバーボたちもやって来た。また「’90年いのちの祭り大山」をやった笠岡の俊ちゃんや弟の慎一郎ともここで出会った。

いつもは石屋川公園の2号線に面した場所の畳7畳が「元気村ライブ」のステージだったが、時にティピーを何張りも張って大きなコンサートもやっていたし、公園に張られたティピーではいつも火が焚かれ、その周りには全国から来た菩薩さんのような人たちの、夜の憩いの場所ともなっていた。

さて、自分は4月頃まで元気村のティピーやテントに寝泊まりしたり、また赤穂の実家や大阪のカオリコの実家や時に半壊となった芦屋のアパートから通ったりもしていたけれど、カオリコのお腹にいた子どもの出産日が迫ってきた5月の連休前に元気村を離れ、友人を頼って愛知の西尾に移り住んだ。

それ以降、特に2000年前後には「神戸元気村」から発展した数々の平和活動、後にOPEN JAPAN 開けニッポン!の掛け声で、バウさんが呼びかけ行動する「地雷撤去」や「種」のこと、「原爆の残り火」「劣化ウラン」のことなどにも関わった。また自分たちが関わるピースウォークやWPPD“せかいへいわといのりの日”などにバウさんが賛同、支援してくれたりと、2000年代前半のバウさんが“元気”な頃まで「元気村」との交流は続いていった。

さて、あらためて「神戸元気村」は、30年前の神戸の震災の活動だけでは無かったね。と数々の思い出と共に振り返った。

スターンも言ってたけれど、元々日本の草分けのカヌーイストだったバウさん。そのアウトドアズマンとして、自然の中に身を置いて生きてきたバウさんだから、地球の、環境の、迫り来る大問題に人一倍ビビーって直感が働くんだろう!

温暖化の原因とされるオゾン層破壊のその原因。フロンガスを規制する必然性を、その持ち前の行動力で全国の自治体を回って働きかけた。その途中に起きた神戸の震災。だからこそあんな迅速な行動で動けたんだろう!また、そのアウトドアで身に付けた経験は、災害時において何より役立つスキルだと。だから即座に大災害とアウトドアを直結させて、モンベルなどにも働きかけ、災害地へのテントなどを提供してもらった。それがモンベルの今も続けられる「アウトドア義援隊」のはじまりともなった、と。

もちろん災害だけではなく、核による悲惨さや戦争が世界中で一番酷い“環境破壊”だと分かっていた。だから、そんな事にも即行動で動いていった。

これもスターンが言っていた、一緒にテレビのニュースを見ていて何か気になることがあると「次はこれや!すぐ動こう!」と。それがバウさんだったと!

いろいろな話はあの頃にも聞いてたけれど、今回いろんなピースがあらためて繋がった。

バウさんの口癖だったと言う「ゼロからイチを起こす!」

そんな、30年と1日目でもありました!

(夕方の「元気村ライブ」に続く)

 

「神戸元気村」ライブ

トークの後、会場を地下の食堂に移しての「神戸元気村」ライブ。

その開始までの時間が少しあったから、まだ明るくて暖かい今日の石屋川の空気を吸いがてら、トールとのぞみちゃんと再び「もっこすラーメン」で、、早めの再会の祝杯を〜

 

もちろんラーメンじゃなくて豚皿とトッピングの味付け玉子をアテに、30年積もる話をあれこれと。

何より、あの時18歳、高3だったのぞみちゃんのさっきのトークの続きをいろいろ聞いてみた。

「さっきも少し聞いたけど、沖縄の舞踊家になったのは何がキッカケ?」

「ある時、その石垣島の舞踊を見た時に、すごく感動して、それをバウさんに伝えたくて、当時はこの「もっこす」の隣の建物にあった「元気村」に行ったの。するとバウさんは、「のぞみちゃん、踊れー!」って。全く予想もしなかった返事。てっきり「良かったね〜」くらいの返事が来ると思ったのに、「踊れー!」って!?それでよくよく考えてみた。そうか、私は実は踊りたいって思っているのか、と。そんな考えに至った。それから踊りを習いに石垣にしばらく通って、覚悟が決まった。それで移り住んだの!」

そんな話を聞きながら、人生は不思議で、、素晴らしい!って、改めて思った。

そんなこんなでビール瓶が4?5本並んだ頃に「あ!もうライブが始まる時間だ〜!」と、慌てて公会堂に戻る。

ここでもスターン先生、バタバタしながら音響に詳しい何人かがステージのセッティングを手伝っていた。

ライブに駆けつけた岡野(弘幹)くんも現れて、さてさて今宵はどんな流れになるんだろう〜

あの頃の石屋川公園の畳7畳「元気村ライブ」もそうだった。あくまで自発的に、自然発生的な、その日ミュージシャンが駆けつけて、そしてライブが始まるのだ。

そんな中には、ジャパン・サンスプラッシュに来日中のジャマイカのミュージシャン、フレディ・マクレガーなんかも居たっけな!

だからこの日出演の桑名晴子さんや岡野くんも慣れたもので、いつものこんな流れを楽しんでいるフシさえある〜?

 

天野SHOさんなんて、まだ現れないし〜

 

それでも会場的には、終わる時間がキッチリ決まっているから、多少のインディアン・タイムはあるにせよ、スターン先生司会で30年目の「神戸元気村ライブ」はじまり〜はじまり〜!

そのスタートに相応しい、この御影公会堂の食堂の創業者のお孫さんにあたる、現オーナーの女性からのご挨拶から。

「この御影公会堂は昭和8年に出来て以来、3度の災害に耐えて生き残ってきたと祖父から聞かされてきました。最初は神戸大水害。次は神戸大空襲。そしてあの大震災と。その時も建物は大丈夫でしたが、周辺のあまりの被害の大変さに、当時この店をやっていた父は、もうとても営業は再開出来ない。と、落ち込んでいました。でも、ここが避難所となって最初の神戸元気村が始まった時に、バウさんたち元気村の皆さんが、「出来ることは何でもやるから、絶対に店を無くさんといて欲しい!」と。その言葉に元気付けられて、店を続ける決心が出来たのです。」と。

そんな公会堂の食堂で、創業以来90年続く伝統レシピ、丸二週間!煮込んで作られる名物のハヤシライスをいただいた後、この話を聞けたのも良かった。

さぁ、その後ライブのオープニングは、30年前の映像にも出てたスターン自らのブルースハープとウッドベースの魚谷さん奏でる“上を向いて歩こう”だ。

続いて、岡野くんが「では一曲」と、インディアン・フルートをセレモニアルに演奏し、さすが!場の空気が変わった。

震災の前後、約15年余り訪れていたインディアンの世界。その世界の見方を通して、いろいろな事を教えてくれる、、

30年前と今とが、交差する。

岡野くんの奏でるインディアンのフルートの音色が祈りとなって、神戸の街に染み渡るなぁ…

「次、私が演るわ」と、晴子さんが準備をはじめる。

そのタイミングでSHOさん、登場だ〜♪

「オレも一緒にやるわ!」と、ベースを取り出して、晴子さんと2人準備してる様も、カンロクだ〜!

この人生の先輩たちは、30年前ももちろん、その以前からメジャーの世界はもとより、日本中で、街角で、オンザロードで、歌い演奏してきた。その筋金のスジ者だ〜

 

 

だから、一瞬で空気を変える。その達人の技者だ!この日もサーッと、次元を変えて聴かせてくれたね!

「あの元気村に立ってたティピー。私らが全国回って集めたお金で用意したの!」と、またパズルがつながる言葉が晴子姐から発せられる!

そんな晴子さんのギターケースには、2004年夏至の富士山で開催したWPPD2004のステッカーがボロボロになってまだ貼られていた!自慢じゃないけど、オレがデザインしたやつだぜー!この時も、晴子さん全国回って歌ってWPPD“せかいへいわといのりの日”開催の、その基金を集めてくれたんだー!

 

そんな晴子さんの歌の後は、地元神戸のSHOさんだ!

SHOさんのベースの弾き語りを聴きながら、、あの時30年前に元気村で会った三田のやっさんと言う男のことを思い出した。

やっさんは、柔道が何かやっていたガタイのいい、見た目はけっこういかつい男。けれど、その心根は優しい大男で、元気村で出会って親しくなって、それでやつの住む三田の家にでっかいアメ車のトラック乗って時々連れてってもらって世話になった。

三田のどこかのモールではCREEKって名前のバーをやっていて、その店でもよく飲ませてくれたな。

やっさんは元気村に属してるって感じではなく、他の避難所を手伝う傍ら時々元気村に来ていた感じ。オレもどちらかと言うと元気村に居ながらフリーで動いていたから、それもあって時々一緒に行動していた。

やっさんも音楽が好きで、地元三田だったか自分の店だったか、上田正樹のコンサートもやったらしいが、天野SHOさんの大ファンで、SHOさんにもライブしてもらったんやって、よく聞かされた。

自分が元気村にいた2月から3月くらいには、神戸も少し落ち着いてきたような。だから「元気村ライブ」のような歌や音楽が被災した人の心を慰める。そんな少しの余裕も生まれていた頃だったと記憶する。

ある時、自分も少し知るシンガーの新井英一さんに電話をして「神戸に来て歌ってくれませんか?」とお願いした。

新井さんは「わかった。おれが歌う場所を用意してくれ」と、快く了解してくれた。

この時は、神戸元気村ライブの7畳ステージではなく、どこか体育館のような、たくさん人が避難する。そんな場所がいいだろう。そう思って、やっさんに相談して、幾つか場所を探してもらった。

ちょうどその頃、新井さんの歌を気に入ったジャーナリストの筑紫哲也さんが自身の「ニュース23」のエンディングに新井さんの歌を使い始めた。それで新井さんの神戸でのライブをニュース23が中継する。そんな話に発展した。

その話を聞いた時は、マスメディアが入るよりも、純粋に新井さん本人だけが来てくれて、その魂の歌を神戸の人に届けて欲しい。正直そう思ったけれど、その頃はマスコミの関心や報道も少しづつ薄れはじめた時でもあり、まだ復興どころか避難所には人が大勢暮らす、そんな状況の被災地の、そこに暮らす人たちからは「神戸を忘れないで!」と、そんな声も出始めていた。

なので新井さんと一緒にやって来た、当時は番組ディレクターだった金平茂紀さんに、ぜひ「ニュース23」で、この今の神戸の現状をありのまま伝えてください、と何度もお願いした。

このことは神戸元気村の活動では無かったけれど、今思うと「何かできることを自分で見つけて即行動する」という、バウさんの流儀としては、これもれっきとした「神戸元気村ライブ」だったのかもね!

あの時も含めて、やっさんにはいろいろ世話になったな。

どこか繋がる空の下で、今でもやっさん、元気に生きてるかー!

SHOさんのライブを聴きながら、SHOさんの大ファンだったやっさんの事、トールと思い出いろいろ語ったりもしたよ。

SHOさんの、このベース弾き語りのスタイルも神戸の震災、そして「元気村ライブ」から始まったってね。

SHOさん、今でも月に一度(?週にだったかな?)ボランティアライブを続けているそうで、だから元気村OPEN JAPAN の吉村くんやトールが通う能登にもまた義援金を送るって言ってくれてたね。ありがとうございます

続いて、再び岡野くんが登場して2曲、インディアンフルートでまた、祈りの音色を響かせてくれた!

岡野くんもカンロクだなぁ!

最後に、SHOさん、岡野くん、魚谷さん、そしてスターンも登場しての、SHOさんボーカルでSweet Home KOBE〜♪会場一緒にノリノリ大合唱で大団円のエンディング!

最後はそのまま集合写真で、30年と1日の「神戸元気村ライブ」無事終了でした〜!

魚谷さん、岡野くん、晴子さん、SHOさん、Sweet Home KOBEますますパワフル元気村30年目のライブ、ありがとうーー!

トークもライブも、撤収時間ギリギリの、熱い集まりだったけど、ほんと、これを呼びかけ準備してくれたスターン、、感謝感謝の大感謝!

 

いまは亡き、バウさんや、中山さん、、きっとこの場にいて一緒に楽しんでくれてたことでしょう

 

フォーエバー 神戸元気村 

Spirit Never Die !!

 


2025.1.17 草島取材映像
5時46分を東遊園。午後、新長田のソウルフラワーユニオン モノノケサミット復活ライブへ



 


1995年当時の映像

神戸元気村初期の活動

神戸元気村ライブ!1995  オムニバス 桑名さん、SHOさん、加川良さん、魚谷のぶまささん、
フレディマクレガー!?の30年前



バウさんの映像


 


2025年新春!謹賀新年


謹賀新年 2025.1.3

わかちあい、ともにつくる。持続可能な鶴岡市へ

1CF562E2-7F9A-4689-9D03-FFFE9EFD537E

9EAB8BC0-069D-403E-95C7-BCD729DF09AC

 

2996D5C8-08B7-4B3C-B8B2-77C8D706D55C

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年が明けました。昨年は元旦に能登半島地震、一昨年は大晦日の西目地区の土砂災害、となかなか落ち着かないお正月でしたが、今年は、おだやかな正月ですね。

 

なによりです。大晦日は松例祭にいき、3時の歳旦祭。


1月2日は、下池で野鳥観察をおこない、オオワシ、オオヒシクイに遭遇。

1月3日毎金観察会初日 オオヒシクイ63羽確認。

ーーーーーーーーーー

1月2日に、パル前にて、新春街頭演説をおこないました。

新年のご挨拶として、改めて、わかちあい、ともにつくる。持続可能な社会へ。を宣言。

12月議会での「トキと共生する、脱ネオニコ、有機農業の推進」からはじまり、矢引風車の問題、遊佐酒田の洋上風力発電の問題、災害支援の課題 などを

おつたえさせて頂きました。

 市民の皆さん、ボクらは過去を生きることはできません。でも過去や「こういうもんだ」に縛られたりしていませんか? 

ああ、どうせこうなんだとか、自信ないとか、噂話とか、悪口とか、全てはそれらは貴方が勝手に思いついた ストーリーです。

実際に起きたことしか起きていません。事実は事実です。ただそれだけです。

往々にして、事実ではない、ストーリーでがんじがらめになってませんか? そんな時間はもったいない! 手放してください。

新しい今から未来。そこには可能性しかありません。

可能性だらけの未来に自由に絵を描いてください。創作と行動です。そこに愛をもってやっていきましょう。

 

特に今、鶴岡市では新しい図書館の構想の意見を募集しています。あなたの居場所にふさわしい市民図書館をみんなの力でつくりませんか?

それと駅前のフーデバーには、シェアキッチンを12月議会で提案しています。飲食店許可をお持ちで出店の壁に躊躇している方、他、観光客が訪れる駅前のお店で出店してみたい方、1日単位で利用されて出店してみませんか?

ぜひみなさんの力を発揮してください。

 

持続可能な鶴岡へ。 

2015.1.3  草島進一

 

 

 

 


ラムサール条約湿地 大山上池下池 観察記録



ラムサール条約湿地 大山・上池(下池)の観察記録
2023.1~

BE0F148C-99A5-4990-A56D-C57E99ACAEC1_1_105_c


2023.12.29 大山 下池畔 草島進一撮影 オオワシ
4773E808-BED2-4A6D-BA32-C8604672F749_1_201_a

2023.12.29 大山 上池 オオヒシクイの飛翔 草島進一撮影 

B41C420E-3898-43E4-96BB-E53F0BDF8540_1_105_c

大山上池 2023.10.6 6:20AM

 

(さらに…)